『マリア様がみてる』SS

二人だけの世界で



 ここは薔薇の館の二階のいつもの部屋。

 今は放課後、曜日はよくわからない。

 いつも通り、書類整理のお仕事を手伝っている最中。

 そして、隣りでは祐巳さまが同じようなお仕事をなさっている。

 瞳子がその時点で持っている情報はそれだけだった。そういう状況が、いきなり始まったのである。そして、その事実を瞳子はすんなりと受け入れた。何も疑問には思わなかった。とりあえず、祐巳さまと二人きりだということが嬉しかったので文句はないのだし。
「……どうしたの? 瞳子ちゃん。」
 自分が突然手を止めた、という状況なのだろう。祐巳さまがちょっと驚いたようにこちらを見ていた。本当に、考えていることがわかりやすい人である。
「いえ、何でもありませんわ。」
 すました顔で瞳子はそっけなく答える。愛想笑いの一つもできやしないのかと自分でも思うが、この人の前では余計な気遣いで墓穴を掘ることも多い。通常なら、多少祐巳さまに主導権を握られたって問題にはならないだろう。しかし、「今」は特別だ。もしも彼女のペースに乗せられでもしたら――
「ほら、また止まってる。本当に何でもないの?」
 瞳子の肩に軽く手を乗せながら、祐巳さまが顔を覗き込んできた。視線が至近距離で交錯したのを認識するや否や、瞳子の顔のあたりが急に熱くなってくる。
「大丈夫ったら大丈夫ですっ。」
 ぷいっと顔を背けて、とっさに祐巳さまから身を離す。考えても考えなくても振り回されてしまうのは、この人に勝ち目がない証拠なのだろうか。
「そっか……じゃあ気のせいだね。」
 そこであっけなく引き下がられると、それはそれで何か寂しい。もちろん、あれだけ強く否定してる自分にも否があるのだとはわかっているが、それにも負けないくらい強く心配してくれたっていいのに。だいたい、しつこいときは本当にしつこいのだから。
 そこでふと気付く。「通常」なら出てくる自分へのツッコミが出てこない。いつもなら「何で祐巳さまに心配してもらいたがる必要があるのか」とか、「引き下がってくれたんだから喜ばしいはずじゃないのか」とか勝手に頭が考えるのに。
 祐巳さまは作業を再開していた。淡々と書類に目を通しては、承認のハンコを押して別の山に積みなおす、その繰り返し。瞳子は瞳子で、学園祭の経費出納記録に目を通して書き漏らしがないかチェックし、ハンコを押して脇の山に積みなおす作業を淡々と繰り返しているだけ。薔薇の館の中には紙をめくる音とハンコを押す音が時々響いているだけで、他には何も無い。特に会話があるわけでもなかったが、祐巳さまと二人っきりという事実が何だか嬉しかった。
「……みんな、来ないねぇ。」
 そんな浮かれ気分をぶち壊しにしてくれる一言が祐巳さまの口から発せられた。さすがはニブチンの祐巳さま、ここぞというところでしっかりと本領を発揮してくれる。
「今日は……」
 いつもなら――自分でも何故だかよくわからないが――なんとなくムッとしてしまう場面である。が、今はそんなに気にならなかった。
「どなたも、いらっしゃいませんよ。」
 なんとなく笑いがこみ上げてきてしまった。堪えようとしたが、含み笑いが漏れてしまった。
「なんでそんなことわかるの?」
 いきなり不可解なことを言い出す瞳子に、祐巳さまは少し面食らっているようだった。無理もないだろう。瞳子が「いらっしゃらないと思う」ではなく、「いらっしゃらない」と断言してしまったのだから。
「どういうこと? また瞳子ちゃん、私に隠し事してる?」
「いいえ……いえ、してるといえばしてるのかしら……」
 正直に言ったところで、信じてもらえるとは思えないし、それに――

――言ってしまえば、きっとそこで終わり――

「ねぇ、瞳子ちゃんてば〜、どういうこと〜?」
 なおもしつこく食い下がる祐巳さま。そうやって馬鹿正直なところを見せられるとついつい意地悪したくなる。
「祐巳さまには関係ありません。言ってもどうせわかりませんわ。」
 傍から見れば、きっと「つーんとそっぽを向いた」と表現されるのだろう。しつこい人にはそっけなくするのが一番の対応策である。ただし、相手が「普通の」しつこい人ならば、の話であるが。
「そんな意地悪しないで教えてってば〜、と・う・こ・ちゃ〜ん。」
 この祐巳さまという人は、そっけなくすればするほど、加速度的にしつこくなっていく。瞳子としても実際のところ――「今」に限ってのことだが――それがわかってるからこそ、そっけなくしているわけだが。要は祐巳さまに構ってもらえるのが嬉しいわけで。ただし、やりすぎは思わぬアクシデントを招くのも世の常だったりする。
「じゃあ……実力行使。」
 祐巳さまがいきなり瞳子の縦ロールの先を軽く掴んだ。正面に立って両手に一本ずつ、結果として瞳子は祐巳さまに両腕で挟まれて見つめあうような体勢になってしまう。
「あ……」
 これはまずい。心拍数が急に上がり始め、たちまち顔のあたりが熱くなってくる。こんなはずじゃない。祐巳さまと付かず離れずの微妙なじゃれ合いをしていたかっただけなのに。こんなはずじゃ――
「教えてくれなかったらこの縦ロール思いっきり引っ張っちゃうよ。たぶんけっこう痛いよ?」
 本当は思い切り引っ張ることなんか出来ないくせに、相手が嫌がるようなひどいことを意識して出来なんかしないくせに、お姉さんぶろうとして意地悪な表情を作って見せたりして、なんてかわいい――

――だめ、落ち着かなきゃダメ、このままじゃ――

 理性がそう訴えるけど、心は全然言うことを聞いてくれない。祐巳さまに惹かれる心は暴走しっぱなし、きっと瞳子の顔は真っ赤になっているだろう。そんな風に弱みなんか見せたら、「今」の祐巳さまはきっと……
「……嘘だよ、そんなことしないよ。」
 優しい声でそんなことを言って、祐巳さまは瞳子の髪を解放してくれた。そのまま無言で椅子から立ち上がって、ゆっくりと瞳子の背後に歩いてくる。
「祐巳……さま?」
 優しく、でもちょっとだけ妖しく、祐巳さまが微笑みを浮かべているのが何故かわかってしまった。そちらを見ているわけではないのに。
「よく見るとさ、瞳子ちゃんって髪……綺麗だね。」
 祐巳さまの指がそっと縦ロールの髪を一房すくう。それだけで何故か瞳子は体中の神経を激しく揺さぶられるような――あるいは、全身の血の流れが何倍にも速くなったような――得体のしれない快感を覚えて、思わず身震いをしてしまった。呼吸が少しだけど荒くなってしまっているのが自分でもわかった。なんてはしたない――でも、我慢できない。
「そんなこと……ありませんわ。」
 やめてください、とは言えなかった。
「ううん、綺麗だよ。」
「……そう、ですか。」
 されたい放題、なすがまま、私の全てはあなたのもの、いろんな言葉が浮かんでは消える。髪をいじられているだけで何をそんなに恥ずかしがる必要があるのか、とも思うが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 そのまま、しばらく沈黙が続いた。祐巳さまはずっと瞳子の髪に触れているだけ。髪ごしに祐巳さまの温度が感じられるのが心地よかったけど、本当は少し寂しかった。
 ここには誰も来ないから、この空間は二人だけのものだから、もっと祐巳さまのぬくもりを感じたかった。背中からでいいから、抱きしめて欲しかった。でも――

――私は、祐巳さまに抱きしめられる感触を知らない――

 窓の外にふと目をやる。リリアンの敷地内は静寂に包まれている。人の気配がしないだけに留まらず、物音一つ存在していない。誰も来ない――それは当たり前のこと。何故なら、この世界には瞳子と祐巳さましか存在していないのだから。瞳子がそれを望んだのだから。
「ねぇ、瞳子ちゃん。」
 髪をいじる手を止めて、祐巳さまの方から口を開いた。瞳子の視界の中で、窓の外の風景が万華鏡のようにぐにゃりとゆがんで消えていく。
「もしも……私がさ……」
 馬鹿ね、私って。こんなことをして何の意味があるのかしら。
「瞳子ちゃんに」
 歪みは生徒会室の中にも広がっていく。壁も、窓も、ビスケットのような扉も、流し台も、机も、マーブル模様のうずまきみたいになって消えていく。
「ロザリオをもらってほしいって……」
 何もない虚ろな空間に瞳子と祐巳さまだけが残される。地面も空もないのに、いつの間にか向かい合いに立っていた。
「妹になって、って言ったら……どうする……?」
 そんなことを祐巳さまが言って、いや――

――祐巳さまに言わせて、何がしたいのかしら?

 瞳子が作り出した虚構の空間は全て消えた。消えたはずなのに、祐巳さまだけが残っている。彼女だって、瞳子の作り出した虚構であって、瞳子の望む通りに動く偽りの祐巳さまだ。だけど消えてくれないのは、消えることを認めたくないのはきっと――
「ロザリオに興味はありませんわ……でも」
 それが自分の欠片だとわかっていて、それでも瞳子は答えを口にした。
「出来るならずっと……祐巳さまのおそばに居たいです。それが、どんな形であっても……。」
 そう、この気持ちだけは、この想いだけは、どんな世界にあっても偽りではないから。

 マーブル模様の世界の中で、最後に残っていた祐巳さまの姿が、陽炎のように虚ろになって消えていく。祐巳さまは静かに手を振りながら、慈しみに満ちた微笑みを浮かべていた。そんな優しいお顔を、瞳子は今まで見たことがないはずなのに……。

 それが、夢の終わり――――

 マーブル模様に消えたはずのリリアン高等部の校舎がぼんやりと視界に映っている。続けてぼんやり現れたのが窓枠、さらに視界の端に人物と思われる影。確かこのおかっぱ頭のシルエットは、白薔薇のつぼみで一応親友の――
「……乃梨子さん」
「目が覚めた?」
「……ええ、おかげさまで。」
 どうも頭がぼんやりする。よほど変な夢を見ていたのだろう。直前まで何かわけのわからないことを夢の延長で考えていたみたいだが、もう何を考えていたのかも忘れてしまった。
「この私としたことが、うたた寝をしてしまったみたいですわね……。」
 口元を覆って、軽くあくびをしてみる。最近は学園祭も近くなって、部活の追い込みと薔薇の館のお手伝いで大忙し。バイタリティ溢れる活発なこの身も、さすがにくたびれてきているようだ。
「まぁ10分ちょっとだし、気にしなくてもいいよ。」
 ポーカーフェイスで感情が読みにくい乃梨子さんだが、とりあえず気を使ってくれているのはわかった。疲れているのはお互い様なのだし、苦言の一つも呈されたって文句は言えないところだったから、ありがたいことである。
「ところで瞳子。」
 そう思った矢先、乃梨子さんが続けて口を開く。まだ話は終わりじゃないらしい。
「何ですの?」
「寝てる間、夢見てた?」
 見ていた。直感がそう告げる。
「……見てた気がしますわね。」
 そして、何だか愉快でない気分になってくる。これも直感。おそらくは――
「祐巳さまの夢でも見てた?」
「そうそう……って何故それを!?」
 不機嫌が顔に出てしまったのだろうか。女優とは言え、舞台を降りれば只の人。しかしそこまでわかりやすかったら、まるで祐巳さまではないか。
「いや、寝言で祐巳さまの名前呼んでたから……嬉しそうな顔して。」
「な……!?」
 驚愕と羞恥が表情を支配していくのがよくわかった。さすがにこれは祐巳さまでなくても顔に出る。
「ほ……ほ……本当ですの……?」
「嘘。嬉しそうな顔してたけど祐巳さまの名前は呼んでなかった。」
 乃梨子さんはポーカーフェイスは全く崩さずに、軽く舌を出してみせてくれた。
「の……乃梨子さんっ!!」
 演技抜きで大声を張り上げてしまった。さすがにやられっぱなしで恥ずかしくて、とりあえず顔をそらしてみた。
「ごめん、そんなに怒るとは思わなかった。たださ、瞳子にそういう気持ちがあるから引っかかるんだと思うけど。」
 怒っていると解釈されたらしいが、あまり反省はしていないらしい。ついでに痛いところを突いてくる。
「そんな気持ちはありませんわ……」
「ほんとに?」
「ありませんったらありませんっ……………………まだ。」
 ぼそりと付け加えた本音を聞き逃してくれる相手ではなかった。
「瞳子……あまり遠慮してると、誰かさんに競争負けちゃうよ?」
 誰かさん――異常に髪が長く、異常に背が高いクラスメートの姿が頭に浮かぶ。
「彼女も……今はそのつもりはないと思いますけど。」
「まぁ、たしかにそんな感じだけど。」
 どちらにしろ、他人は関係ないのだ。瞳子としては、今の祐巳さまとの関係が心地良いだけ。べたべたしすぎるより気が楽だし、けっこう楽しいときも多い。最近は祐巳さまも打たれ強くなってきて手加減しなくて良くなったから、ますます楽しくなっているような気がする。本質的に口が悪くて性格も悪い人間だとは自覚しているし、だからこそ、たまには猫をかぶらずに振る舞いたいときもある。

――好きな子をいじめたくなる気持ちってのもありますし。

 口に出して万が一にも「彼女」に聞かれたら大変なことになりそうだから、心の中でつぶやいておく。乃梨子さんは気がついてないみたいだけど、薔薇の館の入り口が開く音がかすかに聞こえたのだ。この階段を登る足音は間違いなく――
「ただいま〜。漫究の書類に不備があって時間かかっちゃった、ごめんね。」
 数枚のプリントを脇に抱えて、祐巳さまが部屋に戻ってきた。そろそろ外回りの仕事に出ている二年生と三年生の皆さんがお帰りになる時間だ。
「祐巳さま、お茶は何を淹れましょうか?」
 乃梨子さんが動くより一瞬早く、瞳子が席を立った。乃梨子さんは祐巳さまには見えないように苦笑してみせた。
「あれ……珍しいね?」
 たまには優しい後輩を気取るのも良いかもしれないと思う。あくまで、気取るだけですけど。
「何かあったの、瞳子ちゃん?」
 さすがの祐巳さまも、瞳子の機嫌が良いことに気付いたらしい。何故かご自分まで機嫌を良くしてそんなことを聞いてくる。そんな祐巳さまに、瞳子はいつも通りこんな言葉を返すのであった。

「ふふ……祐巳さまには、関係ありませんわ。」


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