『マリア様がみてる』SS
10 minutes
多忙な人に着いて仕事をする身ともなると、補佐だって多忙になるものである。机の隅に山積みになっている書類が、それを物語っていた。とは言ってもそれはすでに処理済みの山だから、気が重くなったりはしないのだが。
「ふぅ……これで終わり、と」
全ての書類のチェックを終わらせると、祐巳は顔を上げた。西日の光が、焦点が合わずにチカチカしている視界を包む。いくら見晴らしが良くて気分転換になるというコンセプトがあるとはいえ、一面ガラス張りというのはやはりどうかと思う。備え付けの時計に目をやると、あと10分ほどで16時になろうとしていた。
そろそろお帰りの時間だ。かなり急いで仕事をしていたつもりだったのだが、結局ギリギリになってしまった。姿勢を正してドアの方を向き、その瞬間を待つ。ほどなくして扉は開き、入室してきた主に対して祐巳は深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、祥子さま」
半日がかりでやっと処理した書類の束を、祥子さまは1時間弱でチェックし終えてしまった。いままでに数え切れないほど思ってきたことだけど、やっぱりすごい方だと思う。
「明日のお昼までで良かったのに……よくがんばったわね、祐巳」
「でもミスがあっては大変ですから、もっと時間をかけてやるべきだったと反省しています」
「大丈夫よ、ミスはなかったわ。よく勉強している証拠ね」
「恐れ入ります……」
たしかに技能的・知識的なことに関しては多少の自信があった。ただ、いまだに百面相の癖はよく出てしまうし、学生時代にさんざん聖さまに笑われたような変な声を上げてしまうこともある。内面の成長というのはなかなか難しいものだ。
「いまでもたまに忘れてしまうのよね、あなたが秘書検定1級の有資格者だというのを」
「それは家族にも言われます。何かの間違いだったんじゃないかって」
「ふふ……、でも本当はすごく頑張ったんでしょう? あなたの仕事ぶりを見ればよくわかるわ」
そう、あの時は必死だった。祥子さまのおそばにもう一度行ける方法があるとわかって、でもそれには英検、ペン字、珠算などいろいろな技能資格を求められると聞いて、全力なんて言うものじゃ済まないくらい勉強しなくてはいけないことも承知で、それでも気力を振り絞ってがんばったのだから。
そして今、自分はここにいる。あの頃と同じように、祥子さまの補佐として、祥子さまの傍らに。
「今日はこんなところにしましょうか」
「はい。おつかれさまでした、祥子さま」
「おつかれさま」
そんなにたくさんの手荷物があるわけではないから、すぐに帰り支度は済む。学生時代とは大違いである。
もちろん主より先に立ち上がることはせず、あちらの支度が終わるのを待つ。
だが、いつまで待っても祥子さまは立ち上がろうとしない。ちらりと視線を向けると、なぜか帰り支度に手を付けていなかった。
「祥子さま、どういたしましたか?」
何かを考え込んでいるような表情。
「……やっぱり何かミスがありましたか、私!?」
「あ、そうじゃないのよ。そうじゃなくて……」
たしかに、どちらかというと、迷っていると言った方がしっくり来るか。しかし久しぶりに見た表情だと思う。少なくとも自分が秘書になってからは初めてのことだ。
「………うん」
強く一回頷いてから、祥子さまは立ち上がった。とりあえず続けて祐巳も立ち上がる。さすがに自分だけが座っているわけにもいかないだろう。
「祐巳、話があるの」
「あ、じゃあ、帰りにどこかでお食事していきましょうか?」
「いいえ、決意が鈍るかもしれないからここで聞いてちょうだい」
――決意?
まさか、「あなたを解雇する」とかそういう話なのだろうか。たしかに失敗することもあるけど、まさかこんなに早く見限られるなんて。でもやっぱり自分がいることで祥子さまに迷惑がかかるのなら、早いうちにお側を離れた方がお互いのためになるのかもしれない。だけど次の就職先はどうしようか、また同じ仕事をやろうか。でも祥子さま以外の人の補佐なんてとてもじゃないけどやる気なんか……
「大丈夫よ、暗い話じゃないから」
「……え、えっと?」
「また顔に出ていたわよ。そんなに悲壮な表情をされてしまったら、私もやりにくいわ」
「……すいません」
この百面相とも一生のお付き合いになるのかしら。相手に考えていることをわかってもらえるのは便利なのだけれど。
「ふふ……いいのよ。おかげで肩の力が抜けたわ」
誉められているんだろうけど、やっぱりあまり喜べなかった。
祥子さまはご自分の机の引出しから小さな箱を取り出してきた。
「これを、あなたに」
「え……これは?」
「サイズを聞こうと思ったんだけど……忘れてしまって」
シンプルだけど美しい装飾がされた小箱の中身は、やはり華美ではないけど非常に美しい指輪だった。
「えっと……あれ、誕生日はまだだし……お給料日も過ぎたばかりで……」
クリスマスじゃないし、バレンタインもまだ……。
「ねぇ、付けてみてもらえるかしら?」
「あ、はい」
百面相中断、祐巳は言われたとおり指輪をはめてみることにした。
「うーん……」
とりあえず中指にはめてみようとしたものの、微妙に小さい。次に薬指。ほとんどちょうど良いけど、今度は微妙に大きい気がする。
「……それはね」
祥子さまが優しい微笑みを浮かべながら、祐巳の右手を取る。その薬指に付けられた指輪をゆっくりと外し、今度は左手を取る。
「こっちに付けてほしいの」
サイズはぴったりだった。まるで以前から馴染んでいるようにスムーズに、左の薬指にその指輪は収まった。
「あ……」
さすがの祐巳も、その意味を理解することができた。
「今日ね、お祖父様とお父様、そして優さんと話を付けてきたわ」
この指輪の、祥子さまの言葉の意味が。
「一方的な申し出みたいになってしまってごめんなさいね、でも……」
祐巳は黙って首を横に振る。目頭が熱くなっているのが自分でもわかる。
「ずっと……そばにいて、私の」
「……はい」
返事をする必要など本当はなかった。自分もそう思っている、ずっと、ずっとそばにいたい。そして、祥子さまだってそうなのだから。
「祐巳」
「祥子さま……」
愛しい人のお顔が夕暮れの赤に照らされて見づらくなっている。でも、そのシルエットが微笑みかけている。そう、顔は見えなくても微笑んでいるのがわかる。影だけになっていた姿が徐々に色と形を取り戻していく。
愛しいその姿
――それは、可愛い妹の
――
「………………え?」
祐巳の姿。
「…………あ」
自分の視線に気づいて慌てて顔を逸らすその姿は、確かに祐巳のもの。リリアンの制服を着て、ばつが悪そうに苦笑を浮かべている。
「……私は……?」
「お姉さま、よほどお疲れなんですね。よくお休みになってましたよ」
「……そう」
「時間自体はほんの少しの間でしたけど。えっと、10分くらいかな?」
軽く首を回して周囲に視線を巡らせてみる。確かに、ここはリリアン学園の敷地内の薔薇の館の中だ。
立ち上がると、体が少し軽くなっていた。最近は家の行事に追われているから、疲労がたまっているのだろう。うたた寝するだけでも全然違うらしい。
「……変な夢ね、まったく」
窓ガラスに映る自分の姿を、目を凝らして見てみる。それは紛れもない自分自身、小笠原祥子の姿であった。
「……それとも変なのは私自身かしら……」
「どうしたんですか、お姉さま?」
「いいえ、何でもないわ。今日はもう遅いし、帰りましょうか?」
「あ、はい」
あまり敏感でない祐巳にさえ、様子が変だと悟られてしまったようだ。あんな夢を見た後では仕方がないとも思うが。
祥子はふと、自分を試してみたくなった。
「ねぇ、祐巳」
「はい」
現実の祐巳は夢の中の一流秘書の祐巳とは違い、さっさと先に準備を済ませ、ドアのところで祥子を待っている。
「…………」
「……お姉さま?」
そして、現実の祥子も、
「…………ごめんなさい、なんでもないわ」
「……え、えっと?」
「気にしないで」
夢の中の祥子と同じようには行かないのであった。
夕焼けに照らされて祥子の顔が赤く染まっていたのは、彼女自身にとって幸いだったに違いない。
あとがき