『マリア様がみてる』SS
白の流儀、紅の習性
1
いつものように薔薇の館に遊びに来ていた瞳子は、何とも言えないプレッシャーに悩まされていた。居心地の悪さとでも表現すれば良いのか。
紅薔薇さま
――祥子お姉さまがいると思って来たものの、所用で早いうちに帰られてしまっていたらしく不在だった。さらに黄薔薇さまと由乃さまは部活で不在、祐巳さまと乃梨子さんはクラブハウスへお遣いに出ているとのことだった。
そういうわけで、部屋に残っていたのは白薔薇さま
――藤堂志摩子さまだけだったのだ。生徒会役員の多忙な職務を考えれば、外回りにみんなが出てしまうということは十分にあり得ることなのだが、不思議といままではそのようなこともなかったのである。さらに、乃梨子さんがいれば白薔薇さまは彼女と始終べったりなので、瞳子は白薔薇さまという人との交流がほとんど無かった。白薔薇さまと乃梨子さんの縁結びに一役買ったことを考えれば、彼女と縁遠いわけではないはずなのだが。
だいたい、妹のいる方と二人きりという今の状況そのものがよろしくない。これで白薔薇さまがまだ妹をお作りになっていないのなら、少しでもお近づきになれるチャンスだと嬉しくも思うのだが、あいにく彼女にはもう乃梨子さんという妹がいらっしゃる。あまり長くこの状況を継続するのは、体面上良くない気がした。これでここにいるのが白薔薇さまでなく、妹のいらっしゃらない方だったら話は違ってくるだろう。この薔薇の館なら由乃さまと祐巳さまか。
しかし、由乃さまと二人きりになったところで、いま以上に気まずい雰囲気になるのではないかとも思う。どうにもあの方とは馬が合わないのだ。いくらでも口論できそうなので退屈はしないだろうが、はっきり言って労力の無駄である。
ならば。祐巳さまが一緒だったらどうなのか。祐巳さまとは二人きりになったことがないわけではない。でもそれはあくまで過去の話だ。今の自分が、他の人間が誰一人として存在しない空間で、彼女と二人きりになったら。平時のままの自分でいられるのか、瞳子自身にもわからなかった。
「ねえ瞳子ちゃん」
「は、はいっ?」
物思いに耽っていたところに声をかけられて、瞳子は間抜けな返事をしてしまった。居心地の悪さを感じていたはずなのに、いつのまにか白薔薇さまの存在をすっかり忘れてしまっていたようだ。
しかし何故なのだろう。この方の声や表情には魔力のような変な圧力を感じてしまう。そう、まるで後ろからいきなりぎゅっと抱きしめられたような……。
「祐巳さんとは最近どうなのかしら?」
「……は、はい?」
またも間抜けな返事になってしまった。質問の意図が理解できない。
「あ、変なことを聞いてたらごめんなさい。ただ、今までにあったことが嘘だったみたいに仲良くなっているものだから、てっきり……」
「ま、待ってください」
放っておくと白薔薇さまはとんでもないことを口走りそうだったので、失礼とは思ったが話の途中でストップをかけた。
「私と祐巳さまは別に仲良くなんかありませんわ」
高等部に入学して以来、この言葉を何回も口にしている気がする。
「あら、そうなの? でもよく楽しそうにお話してるじゃない」
「楽しそうなのは祐巳さまだけです」
何故この薔薇の館の人たちには瞳子の不機嫌が伝わらないのだろうか。以前に祥子お姉さまのカバーでお手伝いに来たときもそうだった。おかげでとんでもない恥をさらしてしまった。
「そうすると、楽しんでいるのは祐巳さんで、楽しませているのは瞳子ちゃんなのね」
白薔薇さまはふんわりとした優しい微笑みを浮かべたまま、とんでもないことを口にしてくれた。
「ななな、何を仰ってるんですか!?」
「祐巳さんたら、しっかりお姉さまの流儀をお勉強していたのね。私には真似できないから、ちょっと羨ましいわ」
先代の白薔薇さまの「流儀」というものがどんなものかは瞳子の知るところではなかったが、少なくとも一つだけ言えることがある。
志摩子さまだってこうやって瞳子を慌てさせて楽しんでいるのだから、その「流儀」をしっかりと継承しているのではないか。むしろご本人に自覚がないから、よりタチが悪い気がした……。
それ以降、白薔薇さまは瞳子で遊ぶのがよほどお気に召してしまったのか、乃梨子さんがいようがいまいが、定期的に瞳子を慌てさせるような発言を口にするようになった。
「そんなにキョロキョロしなくても、すぐに祐巳さん帰ってくるわよ?」
「今日も祥子さまはいらっしゃらないけど……やっぱり寄っていくのよね?」
「あら今日は元気ないわね……やっぱり祐巳さんがお休みだから?」
いちいち祐巳さまのことを話題に上げるから、そのたびに瞳子は全力で反論させられてしまう。ついムキになって食ってかかるような感じになってしまうことさえあったが、白薔薇さまは全くペースを崩すことなく、終始ふわふわと微笑んでいるのであった。
2
「瞳子、最近お姉さまに妙に気に入られてるじゃない?」
とある放課後、乃梨子さんが瞳子の席までやってきて唐突に切り出した。
「え、いえ、気に入られているというか、よくお話するだけですわよ」
親戚のよしみがある祥子お姉さまは別として、やはり他の人のお姉さまと必要以上に親しくするのはさすがにまずいので、乃梨子さんにはどこかで弁解しておかなくてはならないと思っていた。瞳子はそのチャンスを逃すまいと、返事を待たずにさらにまくし立てる。
「前に瞳子がお邪魔したときにたまたま白薔薇さましかおられなくて、そのときに少しお話が弾んでから親交を深めさせていただいていたのだけれど、ほら元々瞳子って白薔薇さまに憧れていましたからつい嬉しくて」
「瞳子」
乃梨子さんのクールな口調でぴしっと制止されてしまっては、口を閉ざすしかない。
「別にいいのよ、瞳子がお姉さまと仲良くしてもさ」
表情を作ることで真の感情を隠す瞳子と違って、乃梨子さんはポーカーフェイスだ。だから言葉ではそう言っていても本当はどう思っているのかわからない。ただ、彼女の口調に無理に感情を抑えているような感じはなかった。
「雑談の切り出しのつもりだったんだけどな……そんな過剰に反応するとは思わなかった」
「……失礼いたしましたわ。どうぞ、本題にお戻りになって」
なぜか話の腰を折った瞳子の方が咳払いをする。乃梨子さんは苦笑しながら話の続きを切り出した。
「それでさ、去年は去年で先代の白薔薇さまがよく祐巳さまにちょっかい出してたんだって。その度に紅薔薇さま……その頃は紅薔薇のつぼみか、祥子さまが不機嫌になられて大変だったらしいよ」
そういう困った方がいたという話は、祥子お姉さまから簡単にだけどお話してもらったことがある気がする。そうか、それが志摩子さまの仰っていた、前白薔薇さまの流儀なわけか。
「あまりスキンシップ過剰なことがあると、祐巳さまはすぐにお姉さまに謝っていたそうね。お姉さま自身は別に気にしてなかったみたいなんだけど、逆に祐巳さまがすごく気を使われたとか……」
今も同じように謝っている人間がここにいる気がする。そうすると自分は去年度の祐巳さまと同じことをしているわけか。
「で、今度はお姉さまが瞳子に……ね。血は争えないってやつなのかしら」
「……結局のところ、何がおっしゃりたいんですの?」
妙にたぶらかすので、少しきつい口調で言ってみる。が、相手はあのマリア祭の宗教裁判で祥子お姉さまと渡り合った乃梨子さん、その程度では怯むわけもない。まだまだ話を伸ばしにかかってくる。
「でも祐巳さまは紅薔薇さまとは明らかに違うタイプだからなぁ……お姉さまとぶつかったりはしないだろうけど」
「当たり前よ、祐巳さまが紅薔薇さまと同じなわけありませんわ。高貴さもプライドも、到底及ばないじゃありませんの」
本人のいない場所で憎まれ口を叩いても意味がないのだが、そうしないと何か落ち着かない。
「でも紅薔薇さまに劣らず、負けず嫌いなところはあるみたいなのよね」
それは言えているかもしれない。弁が立つわけでもないのに、論破されまいと必死の抵抗を試みてくることがよくある。
しかし先ほどから乃梨子さんの話には何かひっかかるものがあった。何か根本的なところに抗議点があるような気がしてならないのだが、どこに文句を付ければい
いのかどうしてもわからない。普段ならすぐに気付きそうな簡単な答えだと思うのだが。どうも祐巳さまが関わってくると調子が狂ってしまう。
「万が一にもお姉さまが過剰なスキンシップなんかしたら、それ以上に過剰なスキンシップで対抗してくるかもね。覚悟しといた方がいいよ、瞳子」
その答えが乃梨子さんの口から見事に提示された。
「へ、変なことを言わないでくださる!?」
「何もそんな顔で否定しなくたっていいじゃない。十分ありうる話だと思うけど」
女優たるもの、思った通りの表情を作れなければお話にもならない。だから自分でもどんな顔をしているのかはわかっていた。問題はこの照れと抗議の入り混じった表情が、意識して作ったものではなく、感情を抑えきれずに表に出してしまったものだということだ。
「だいたいさっきから聞いていたら、去年の祐巳さまの位置に私を置いているじゃありませんの! そんな言い方をしたらまるで私が祐巳さまのス……」
それを口にしたら何かが崩れそうな気がして、瞳子は言葉を飲み込んだ。あのとき、左腕を包んでいた温もりが蘇ってくる。脈が速くなってきているのが自分でもわかった。
「……瞳子、祐巳さまの何がそんなに気に食わないわけ?」
赤くなっている瞳子をなおクールに見つめたまま、乃梨子さんはそんなことを聞いてくる。そうだ、この状態になったら祐巳さまの悪口を言うしかない。常にそうやって乗り切ってきたのだから。
「そんなのはいくらでもありますわ。あの方は紅薔薇のつぼみという誇り高き地位にいるにも関わらず、いまいち気品に欠けているんですのよ。それが親しみやすさを作り出しているから悪いことばかりでもありませんけど……」
待った、わざわざフォローを入れてどうする。
「ふーん……ほかには?」
幸いにして乃梨子さんからのつっこみは無かった。
「それに私みたいな生意気な下級生に何を言われてもいつもヘラヘラしていて……覇気がないっていうのかしら? もっと上級生らしい威厳を持っていただかないと、あれではいつか足元をすくわれてしまうかもしれませんわ……」
だから、心配してみせる必要はないでしょうに。
「瞳子さ……」
さすがに今度はつっこみが入った。
「じゃあ聞くけど」
つっこみではないけど、いまだ主導権は乃梨子さんにあった。そして、乃梨子さんが次に出してきたその質問は、瞳子の心にずしりとのしかかった。
「祐巳さまのどこが嫌い?」
「それだっていくらでも……」
まず最初の瞬間に思ったことは、その答えなど無数に出てくるだろうということだった。
――ドコ ガ キライ?
だが瞳子はそこで奇妙なことに気付かされた。いくら考えても、出てくるのは全部さっきと同じ事柄。嫌いな部分か、と問われればもちろん肯定するが、どちらかと言えば「気に食わない」が的確な気がする。それはつまり、嫌いな部分は無いと言っているに等しい。
(うそ……そんなはずありませんわ……!)
自分は祐巳さまが大嫌い。そうでなくてはいけないと思っていた。直接ではないにしろあれだけ心を傷つけて、顔を合わせるたびに非難や侮辱を浴びせて、そんな自分が祐巳さまを嫌いでないはずがない。嫌いでなくて許されるはずがない!
(私は祐巳さまが……祐巳さまのことが……)
そうやって答えを探していくうちに、祐巳さまの姿が脳裏に浮かんでくる。
第一印象はお互いにかなり悪かった。あんな間の抜けた方がなぜ祥子お姉さまのような完璧な女性の妹になれたのかわからなかった。納得いかなかったから、無礼を承知で喧嘩を売るような言葉を口にしたりもした。あの頃は祐巳さまも祐巳さまで、瞳子のことを疎ましく感じていたのだと思う。突然現れた一年生が自分のお姉さまにやたら馴れ馴れしく接している上、自分に対して挑戦的な態度を取るのだから。でもそれは瞳子にしたって同じだった。いままで自分を可愛がってくれていた親戚のお姉さまが突然構ってくれなくなったのだから。その原因が妹ができたからと来ては、その妹がよほど優秀でなければ許せるわけがない。
そして、祥子お姉さまのお祖母様の具合が悪くなってしまったあの頃、祐巳さまと祥子お姉さまの関係は最悪の状態になった。あの頃は自分と祐巳さまの関係も最悪になっていた。許せなかったのだ、自分ばかりが不幸のどん底にいると思い込んでいる祐巳さまが。
祥子お姉さまがどれだけ心細く不安な思いをしていたか、それを少しでも察してほしかった。祥子お姉さまの妹なのだから、お姉さまの危機を救ってほしかった。緘口令が敷かれていたからってそんなのは関係ないではないか。本当に祥子お姉さまのことを慕っているのなら、誰かの口を割らせるくらいの気迫を見せてほしかった。
でもそんな瞳子の期待を裏切って、祐巳さまは自分のことばかり嘆き、祥子お姉さまから逃げて、ついには紅薔薇のつぼみの責務さえ放棄して、クラスメイトと談笑なんかしていたのだ。抗議の一つもしなかったら気がすむわけがない。だから人前ではしたないとは思ったけど、引導を渡してやったのだ。
――やっぱり、祐巳さまは祥子さまに相応しくありませんっ。
あの頃に徹底的に嫌われていれば、今になってこんなに悩むことは無かったのだろうか。
こんなに、と考えて瞳子は我に返った。自分は今、乃梨子さんに質問を受けて返答を待たせているのだ。どのくらい考え込んでいたのかわからないが、無視しているような形になってしまった非礼を詫びなければ。
「ごめん」
しかし謝罪の言葉は乃梨子さんの口から先に発せられた。
「意地悪な質問だったかもしれない」
「……いえ」
答えることは、結局できなかった。それは「ない」という解答が瞳子自身に提示されたことを表していた。もちろんそんなことは、祐巳さまのことをどう思っているかなんて、とっくにわかっていたのだ。否定したかっただけ。だって、その方が楽だから。人を嫌いでいるのなんて大して難しいことじゃないのだ。否定して、傷つけて、顔を合わせるたびに攻撃している相手のことが嫌いなのは、ごく自然なことではないか。
あまりに情報を持っていない祐巳さまを不憫に思った瞳子は、少しヒントを与えようと祖父の病院の話をした。でも祐巳さまは何ともストレートに、
「そこに、祥子さまが入院しているの?」
なんて言うものだから、失礼だとは思ったけど思い切り笑ってしまった。あまりに、彼女らしい発言だった。単純で、でも素直で。長く付き合っていると疲れそうだから早々に話を切り上げてしまったけど、不思議と気には障らなかった。気に障っていない自分に疑問を持った。
――私は、この方が嫌いなのではなかったんですの?
嫌いだったのは、間違いないと思う。でも今も嫌いなのかと問われたら、たぶん答えは……。
乃梨子さんは黙り込んでしまった瞳子を見つめたまましばらく口を閉ざしていたが、ふと何かを閃いたように手を打つと、少し意地悪な笑みを瞳子に見せた。
「瞳子、生徒会役員の座を狙ってるならチャンスじゃない。祐巳さまに気に入られれば、紅薔薇のつぼみの妹になれるでしょ」
「な……私は別にそんなつもりじゃ……っ!!」
言葉を口にしてから、自分が何を言ったのかを認識した。慌てて口を押さえるが後の祭りだった。
違う言葉を言おうとしたはずだったのだ。「なんで祐巳さまなんかの妹に」とか「由乃さまの妹だっていいじゃないの」とか「そんなものにもう興味はない」とか何でも良かった。よりによって、あんな言葉を反射的に口にしてしまうなんて。
「それを聞いて安心した」
耳まで赤くなってしまった瞳子に、乃梨子さんが微笑みかける。さっきみたいな嫌らしい薄ら笑いではなく、本当に優しい笑顔だった。
「大丈夫だよ、瞳子。祐巳さまはきっと許してくれる……ううん、たぶんもう気にしてもいないと思う。あとは」
瞳子の両肩に両手をそれぞれ乗せて、乃梨子さんは瞳子の顔を覗き込んだ。
「瞳子の心に整理が付けば……きっと上手く行くよ」
3
夏休みが明けて文化祭が近づいてくると、演劇部の活動もいよいよ本格的に忙しくなってきた。いままで以上に空き時間が減っているので、薔薇の館に遊びに行く時間は取れなくなっていた。それに、遊びに行けない理由はそれだけではなかったわけで……。
そんな折、ひさしぶりに祐巳さまに会った。食堂に飲み物を買いに行ったときに偶然出会ったのだが、久々に祐巳さまに憎まれ口を利くことができたのが何か嬉しかった。最近の祐巳さまは何を言っても全然平気な風だから、余計に毒舌がエスカレートしてしまう。むしろ祐巳さまの方から酔っ払いみたいに絡んでくるから、ちょっとタチが悪い。人前でベタベタするのはみっともないから、適当に追い払おうとしたけど逆効果だった。祐巳さまはますます勢いに乗って絡んでくる。
でも少し安心した。あんなのにつきまとわれて、いいかげん心労も溜まっているかと思ったけど、全くもって元気なようだった。鈍いのが幸運しているのだろうか。だからと言ってあまりにも鈍いと、きっと足元をすくわれてしまう。大きなお世話だとはわかっていたけれど、注意だけは促しておくことにした。
「お気をつけなさいませ、祐巳さま」
本当に鈍い人だから、パンが売り切れることを注意したとしか思っていないだろうけど。それに、きっと祐巳さまはこう思っているに違いない。「瞳子ちゃんも可南子ちゃんも、どちらも可愛い後輩なのに」って。他人を嫌いになれない人なんだな、と思う。人を嫌いになることに慣れてないから、負の感情にとまどって、あの事件のときみたいに混乱してしまうのだろう。そういう甘いところがどうしても受け入れられないけど、一人の人間の全てを好きになるなんて難しい。だから嫌いなところは嫌い、気に食わないところは気に食わないで良いのだと思う。
それに、もうあのときの祐巳さまとは違うのだ。きっとこの程度のことはご自分の力で乗り切ってみせてくれる。だいたい、自分にだって余計なお世話を焼く余裕はないのだし。だから瞳子は別れ際に一言だけ、自分の素直な気持ちを口にした。
「ご健闘を」
憎まれ口は不思議と出なかったし、自然に笑うことができたと思う。
――がんばってくださいね、紅薔薇のつぼみ。
了