ここ稲羽市に止まらず、全国的に名の知れた老舗の宿、天城旅館。一流の評判に違わぬそのサービスは非常にハイレベルで、振る舞われる料理も天下一品、遠方より来る客の舌を唸らせている。
「えっと……火に直接かけちゃいけないんだっけ……」
夜、それも深夜に近い時間帯。朝から晩まで板前たちが腕を振るっている天城旅館の厨房に、少女のひとりごちる声が響いた。この厨房には何人もの調理師や仲居が出入りをするため、基本的に広々としており、人の少ない折にはちょっとした音もよく響くのだ。
「50度……55度……60度……あ、もう止めないと……あああ、上がり続ける……!」
金属製のボウルを手に、温度計と格闘する少女の姿。夕刻には女将の代理としてここに出入りし、堂々とした立ち居振る舞いで仲居たちに指示を出している彼女だが、現在の慌てふためく様子からは、歳相応の少女らしい幼さが感じられた。服装もカジュアルなワンピースにエプロン姿と、どこか可愛らしいイメージの出で立ちである。
「よかった、止まってくれた……結構難しいのね……」
続けてボウルに「素材」を落とし込み、お湯につけてヘラで掻き混ぜる。非常に煩雑な作業ではあるが、一度決心したことは、絶対に成し遂げたい。
天城旅館の跡取り娘、雪子の決意。それは
――
――今年こそは、手作りチョコ。
手の込んだ料理でなくとも、お手軽料理の定番であるカレーですら、悲惨な物体に仕上げてしまう雪子。しかし今回のチャレンジは、まだ勝算がないでもなかった。何故ならば、工程のほとんどはブロックチョコを溶かすこと。そして味はブロックチョコの味そのまま。味付けで失敗するなど基本的には考えられない。つまり湯せんにすら失敗しなければ、あとは工作と同じ要領で進めていけば良いはずなのだ。それで自動的に、贈り物は完成する。
「……おやお嬢さん、こんな時間までご苦労様で。」
「あ……板長さん。」
何か忘れ物でもしたのか、厨房に入ってきたのは板長だった。いつもの割烹着ではなく、ラフなジャージ姿。見慣れぬ服装だと、印象も少し変わって見えるものだ。
「ああ、明日は……なるほど。ご自分で挑戦なさるとは、感心ですな。」
「だいぶ迷いましたけどね……ジュネスでギフトコーナーと材料売り場の間を何往復もしちゃって。」
「まぁ確かに初めは怖いもんですよ。あっしもおやっさんに弟子入りしたての頃は、皿洗うだけでも緊張したもんだ……。」
今では厨房を取り仕切り、多くの従業員を指揮する板長だが、そんな彼だって当然ながら駆け出しの頃はあったわけだ。当たり前といえば当たり前のことだが、その「当たり前」が雪子の背中を押してくれる。
「……む、これは……」
板長がまな板の傍らに置かれた物体に気付いたらしい。誤解を招きそうな代物なので、先に説明しておいた方が良さそうだ。
「あ、それは私が個人的に買ってきたものです。仕入れ分からいただいてはいませんので……ふふ。」
「え、ああ、それは心配してないですよ。ウチではこれは仕入れてませんから……いやしかし……うーむ……」
どうやら板長には問題が見えるらしい。もしや下ごしらえに何か失敗しているのだろうか。
「い、板長さん……?」
「お嬢さん、差し支えなければでいいんですが、これを渡す相手……教えていただけませんか?」
「え?」
なぜここで相手を聞かれるのかはわからなかったが、少しでもプロの助言が得られるのであれば、情報は提供した方が良いだろう。なにも、隠すほどの相手でもないのだし。
「千枝ですけど……。」
「……ああー、なるほど!」
大声で納得を口にしながら手を叩く板長。普段から落ち着き払っている彼にしては非常に珍しい挙動だった。
「それなら問題ありませんな。大丈夫、自信を持って作ってください。」
「え……あ、ありがとうございますっ。」
唐突に太鼓判を押され、雪子はとりあえず頭を下げる。雪子のように料理の腕が壊滅的な人間が、専門職の人に誉めてもらうなど、光栄の極みと言えよう。
「さて、仕入れのズレもないようですし、あっしは戻ります。頑張ってください、お嬢さん。」
「はい、おやすみなさい。」
どうやら仕入れに間違いがないか見に来ていたらしい。そういえば先ほど業者の人が搬入してきていた。仕入れの担当は別にいるのだが、板長も念のために重ねて確認しにきたのだろう。
「さて、と……あと一息!」
板長と話している間に湯せんはしっかりした。あとは型取りしながら「一工夫」して、朝まで冷やすだけだ。雪子は「よし」と気合いを入れ直した。
翌日
――審判の日、2月14日。
男女を問わず、どこかそわそわした者の多い授業時間。それは上の空のままに過ぎ去り、気付けば放課後を迎えていた。
「まぁ、バレンタインってのは落ち着かないもんなんだねぇ。」
まるで他人事のように、けらけら笑っているショートカットの少女
――千枝は、雪子のとなりに座って肉まんを幸せそうに頬張っている。チョコまんがサービスセールになっていたが、それでもやっぱり肉が良いらしい。
川辺の公園のベンチはまだ寒いかと思ったが、今日は天気が良いせいか、さほど苦にもならなかった。風が吹き抜けるとさすがに寒気がするが、幸い殆ど無風に近い状態だ。
「千枝は安心感があるから落ち着いていられるんでしょう?」
「ん〜、どういうこと?」
わかっていないんだったら鈍感にも程があるが、実際に鈍感なのだからわかっていないのだろう。
「絶対にもらえるって自信があるってこと……はい。」
鞄から両掌に収まる程度の大きさの包みを取り出すと、千枝の目の前に差し出す。
「おー、ありがとう!」
「今年は……あまり味は保証できないんだけど……あ、形もいまいち……」
「へ? もう売れ残りの安物が出回っちゃってたの?」
「いやそうじゃなくて、だから、あの……」
千枝の反応はごもっともだろう。去年までは、売場に並んでいる出来合いのチョコレートを渡していたのだ。それも贈り物という感じではなく、千枝の食欲を満たすという意味合いが強かった。この時期はテレビでこれ見よがしに美味しそうなチョコレートの特集をするから、千枝のチョコレート食欲は刺激され続けてしまう。それを鎮める目的で、雪子はジュネスで美味しそうなギフトチョコを見繕って、千枝にプレゼントするようにしていた。
「……えっとね……作ったの……私が。」
つまり、「贈り物」としてチョコを用意するのは、今年が初めて。
「え……えっ……?」
千枝はなかなか状況が飲み込めないようで、その視線は手元のチョコと雪子の顔の間を何度も往復していた。しばらくそうしていた後、俯く雪子の顔を見て動きを止め、何度か瞬きを繰り返す。
「つまり……てづくり?」
肯定の言葉を口にするのすら抵抗があって、雪子はかろうじて頷いてみせるのが限界だった。当然ながら千枝は、雪子の料理下手をよく知っている。手作りだと知ったら受け取ってもらえないかもしれない。あり得る話だとは重々承知していても、やはりそうなるのは怖いのだ。だけど認めてしまった以上、あとは千枝の審判を仰ぐのみ。
「……千枝……?」
しかし、いくら待っても反応がない。このままでは二人で真冬の公園で氷結状態になってしまう。やむをえず、恐る恐る千枝の方へ顔を向ける雪子。
「……えっ!?」
千枝は、微動だにしていなかった。ただ、目にいっぱいの涙をためて、でも顔は微笑んでいて、まさに何とも言えない表情。
「千枝ごめんっ、そんなに嫌だったの!?」
「へ?」
雪子の叫び声に我に返ったのか、千枝は慌てて目をこすって涙を拭う。
「違うよ、そんなわけないじゃん!!」
「で、でも……」
いきなり泣かれてしまっては、大丈夫と言われるだけで安心するのもなかなか難しい。そんな不安が顔に出ていたのか、千枝は苦笑して付け加える。
「あたしもよくわかんないけど……何か嬉しくって、気が付いたらぶわーって。」
「そんな、そこまで立派なものじゃないわよ……。」
「でもホント嬉しいんだ……ねぇ、開けていい?」
「ええ。」
きっとすぐに開けたがるだろうと思っていたので、ラッピングは最低限にとどめてある。リボンをほどいて、中箱を取り出して蓋を開ければ、すぐにチョコが現れるようになっているのだ。
「すごい……綺麗に型どってるね。」
「形、おかしくないかしら?」
「大丈夫だよ、すごいじゃん雪子!」
確かに型を取る段階は驚くほど上手く行っていた。だから付随する作業もきっと上手く行っている。問題は、それが生み出す結果なのだが……。
「それじゃ、いただきますっ。」
ハート型のチョコを一気に半分かじる千枝。
そのままかけらを口に入れようとした段階で、その動きが一瞬止まった。
予期せぬ出来事が起きて、その対処に悩んでいるようだった。しばし目を閉じて考え込んでいたらしい千枝は、結局はそのままかけらを口内に導いて噛み砕き、続けて残る半分を口に入れた。すぐに溶けるチョコを食べているにしては、咀嚼している時間がやや長い。雪子はその実情を理解しているから特に疑問は感じないが、何も知らぬ者が見たならば、明らかに不自然な印象を抱くであろう長さの咀嚼時間だった。
「雪子……これって……」
「……ええ。」
まるで殺人現場でも発見したかのような緊張した雰囲気。千枝はきっと気付いている。このチョコの秘密、それは
――
「……肉チョコ、だね。」
「……ええ。どうかしら?」
言うまでもない
――とは言い切れないので一応補足するが、この二人、大真面目に会話をしている。
「あたしも驚いてるんだけど……」
「うん……」
千枝は一呼吸おいてから、重々しい口調で審判を下す。
「チョコと肉は……あまり合わない。」
「……くっ、そうなの。」
繰り返すが、大真面目である。
「あたし、間違ってたんだね……肉は何と合わせても美味しいものだと思ってた。だって肉だし。」
理屈としては完全に崩壊しているが、それでも千枝の中での不文律ではあったようで、その驚愕に打ち震える表情は本物であった。
「ごめん千枝、余計なことしちゃったね……」
ちなみにチョコの中に挟んだのはローストビーフ。薄切りだから挟んでも邪魔にならないし、冷えても美味しいからチョコとの相性は絶好のはずだった。少なくとも雪子の見積もりでは。
「余計なんかじゃない。むしろ嬉しいよ。」
「え……?」
「だって、実際にやってみなきゃわからないじゃん、肉とチョコが合うかどうかなんて。」
大抵の場合、チョコに肉を入れるなど愚の骨頂だと試しもしないものだ。しかし実際に試してみなければ、それが不味い組み合わせだということは証明できない。例え既に試した他者がどう評価していようと、自分の口に合うかは自分の舌でしか確かめられないのだ。
「それに、雪子があたしの好みを考えて作ってくれたってのが嬉しいんだ。」
照れくさそうに笑って見せる千枝。
「ただ美味しく作るだけなら、料理の本を見た方が早いけど……あたしの好みに合わせて、頑張って工夫してくれたでしょ。」
確かに千枝の言うとおり、雪子は千枝の好みを優先した。なにも考えずに美味しく作ろうとするのなら、いっそ出来合いのものを買ったって良かった。自らの手で作るのだから、「千枝のために」作りたかったのだ。そう考えたら、内容はこれしかなかった。
「その気持ちが嬉しい……ありがと、雪子。」
「……どういたしまして。」
向けられる純粋な謝意と好意が気恥ずかしくて、千枝の笑顔が直視できない。雪子が照れて縮こまると、千枝はますます調子に乗る。いつものことであり、そのいつも通りが愛しい。
「えへへ……雪子大好きっ!」
がばっという擬音が発せられそうなほどに、勢いよく千枝に抱きつかれる。肩越しに腕を回されて、ぎゅっと身を寄せられた。このままでは完全に千枝に主導権を独占されてしまう。別にそれでも全然かまわないのだが、せっかくの特別な日に、サプライズの一つも欲しいところだった。
「……えい。」
「わわっ」
くっつく千枝を少しだけ押し返す。直前までの距離では近すぎるのだ。
「ちょ、なにすん……」
千枝の抗議の言葉を、雪子の唇が半ば強引に阻害する。
まだチョコの甘い香りが残っていた。あとローストビーフの塩味も。
すぐに解放してあげたが、それでも千枝は耳まで赤くなっていた。
「……私も、大好きよ。」
その言葉に引き寄せられるように、千枝がふらりと身を倒してくる。もちろん、無意識に倒れたわけでもなく、意識的にベンチに寝転がっただけだ。
「……やられた……」
膝の上でうわごとのように呟く千枝。夢うつつと言った心地は少し醒めてきたと言ったところか。
「私もね、千枝に同意だわ。」
「うん?」
そういう目的であんなことをしたわけじゃないのだけれど
――
「チョコにローストビーフは、全然合ってない。」
しばしの沈黙の後、どちらともなく吹き出してしまう。
少女たちの笑い声が、まるで近付く春を歓迎する小鳥の囀りのように、寒空の下に響いていた。
END