確かにあやつの持つ力は天性のものなのじゃろう。
だが、大成したのはあれの「母」の功績じゃな。
もっとも、褒められる母親では決して無いのじゃが……。

ダナーン公国・客員技師 “影の魔女”スカーサ



Episode 7 クランの猛犬




−1−


 北方連合で最大の国家であるペンドラゴン王国が覇権を握るブリタニア大半島。その西方、イリシュ海を挟んだ対岸に位置するのが、北方連合の主要国家が多く居を構えるアイアラン島である。かつてはペンドラゴン属領の自治区域であった地であるが、現在は属国という形ではありながらも、それぞれに独立を認められている。
 その中で最も隆盛を誇るのが、アイアラン島の東半分を占める領土を有するダナーン公国である。ペンドラゴンと内海を挟んで隣り合わせの位置に存在するこの国を治めるのは、コノール・マックニエッサ公爵。かつて自治区域時代に自治政府の圧政と戦った英雄とされる人物だ。彼はその優れた政治手腕で、公国だけに留まらずアイアラン全体を活性化させ、ダナーンは周辺諸国との連携でペンドラゴンに劣らぬ国力を有するまでに至った。現在では北方連合を支える大きな屋台骨の一つとなっている。

 ダナーン公国首都ユリシーズから遥か北西、コナハト侯国との国境周辺の山岳地帯。ユリシーズとコナハト侯国の首都ガリヴを結ぶ街道は大きく南に迂回しているので、常人ならばこの険しい山々に足を踏み入れることは無い。
 そんな秘境とも言える地を、軽やかな足取りで移動する人影が一つ。肩より少し長い程度の髪をたなびかせながら、踏み外せばただでは済まないであろう狭い岩場を素早く飛び移っていく。
「……毎度思うけど、何でこんな場所なのかねぇ。」
 一人でこんなところを移動していれば、独り言の一つも漏らしたくなる。もちろん誰も答えてくれないし、それ以前に自分自身が答えを知っている。知っていながらも疑問を口にするのは、むしろ疑問では無く抗議の意思の表れなのだろう。
「あったあった。」
 ここまで何も無かった岩壁に、巨大な洞穴がぽっかりと口を空けている。中型の霊機程度なら軽く入れるであろうその洞穴に、彼女は足を踏み入れる。この洞穴はかなり奥が深く、少し歩いた程度では行き止まる気配は全く無い。洞穴そのものは天然のものであるようだが、ところどころに灯りが配置されており、人の手が入れられているのは明らかだった。
「あれが無いってことは、あの子は来てないってことか……」
 そんなことを呟きながら、右手の壁に現れた人間サイズのドアを無造作に開く。呼び鈴が付いているが無視、ノックすらしない。
「ババさま〜? ババさまいない〜?」
 入るなり大声で呼びかける。発声を止めぬまま、屋内のドアを無造作に開けて回る。勝手知ったる人の家などというレベルでは済まされない。
「ババさま〜、居留守〜?」
「不法侵入しておいて居留守呼ばわりとは、相も変わらず結構なご身分じゃのう。」
 何も気配の無かったはずの背後から、突然返答の声が発せられる。が、予想済みだったのか振り向く動きはゆったりとしている。
「どこ行ってたのよ。」
 そこに立っているのは、「ババさま」という呼称が全く当てはまらぬ幼い少女だった。見た目には12〜13歳が良いところ。この呼称だけを頼りにした場合、二人の外見上の年齢差は全くもってちぐはぐである。
「お主の開けたドアの裏じゃ。どこにも行っとらんわ。」
 よく見れば箒と塵取りを手にしている。部屋の掃除でもしていたのだろう。こうしているとどう見てもジュニアスクールの掃除当番の生徒である。
「というか、その珍妙な渾名は何じゃ。来る度に新しい渾名を考えおってからに。」
「気に入らない?」
「隠居みたいで心地が悪いわ。儂は生涯現役の予定じゃ。」
 外見上はミスマッチな渾名だが、口調だけなら非常に的を射ている。
「まったく、細かいことにこだわり過ぎよスカーサは。」
「阿呆めが。お主がいい加減すぎるんじゃ、ルー。」

 客人の名はルー・ドルドナ。そして、老いた口調の少女の名はスカーサ。ダナーン公国に暮らしていて、彼女たちの名を知らぬ者はいないだろう。共にかつてダナーンを圧政から救うきっかけを作った英雄であり、現在のダナーンを護る勇士に最も近い人物なのだから。

 よほど新たな渾名が気に食わなかったのか、スカーサは未だにぶつぶつと文句を言い続けながら、紅茶の入ったカップをルーの前に置く。ここダナーンは紅茶好きの多い国として有名であり、その消費量は世界一とすら言われている。こんな山奥で隠者のような暮らしをする少女ですら、紅茶を切らすことは無いらしい。
「で、何用で現れたんじゃ今回は。まさか茶飲み話にこんな辺鄙なところまで来たわけではあるまい?」
「8割ぐらいはそのまさかなんだけど。」
 ルーは悪びれもせずに言ってのける。
「つまり2割は後回しってことじゃな……。」
「よくわかってるじゃない♪」
 昔からこういう奴である。大事な用事ほど後に回したがるのだ。ルーは紅茶をすすりながら、壁に立てかけてある小さな模造槍を見つめている。スカーサの意志で飾ったものではない。かなり昔に、ルーが保存を依頼してきたのだ。
「……あれからさ、何年ぐらい?」
 その「あれ」が何を指すのか、いきなり言われれば特定は出来なかっただろう。しかし、ルーの視線の先にあるものが「あれ」の答えを示していた。
「一月前にあやつの17回目の生まれ日を迎えたわい。もっともお前さんの見積もりが間違っているなら、回数はアテにならんがの。」
「ってことは、もう14年?」
「お前さんが祝いに来ないのにあやつが慣れるぐらいは時間が経っとるわ。」
「手厳しいわねぇ。」
 誕生日を祝うという行動は少し苦手だった。思い出したくないことまで思い出す。
「あの子は私の『愛娘』だけど、私はあの子の母親じゃないからね。」
 これがお決まりの言い訳だ。本当は祝ってあげたい気持ちもあるが、うっかり暗い顔を見せてあの子を困らせたくない。
「『母親』の出来は困ったものだというのに、よくあれだけ真っ直ぐに育ったもんじゃ。」
「育ての親が良かったのよ。」
 ルーは視線の向きを変えることなく、寂しそうに苦笑してみせた。常に動じず飄々とした態度を崩さないこの英雄は、愛娘のこととなると急に弱気になる。
「……謙遜と自己卑下は似て非なるものじゃぞ。」
 反論の言葉はない。ルー自身も自覚はしているのだろう。
「お主が儂の元を訪れた時には、あやつの目には光が戻っておった。」
 同じ状況に陥った者ならば、何十年という時をかけても、立ち直れない場合だってあるのだ。

「お前さんは『母親』としては駄目じゃが、確かにあやつを『救った』……儂はそう思うよ。」

 そうでなければ、あのような出来事は起きなかったはずだ。あの一件が発端となって、今のあの子に結びついているのだから。

 かつてダナーンがフォモール自治区と呼ばれていた頃、自治政府の圧政に民衆は苦しめられていた。そこに平和をもたらすきっかけを作った英雄ルー・ドルドナ。解放戦役と呼ばれる戦いが終わる直前、彼女は誰に告げることもなく姿を消した。
 数年後に旧友であるスカーサの元を訪れた彼女は、一人の幼い少女を連れていた。自分の「愛娘」だと友に紹介したルーは、一つの依頼を残して再び旅立ってしまったという。

――「この子、預かってくれない?」

 この少女がダナーン公国の、そして北方連合の運命に深く関わることとなる。


 少女の名はセ=タンタ。後の赤枝騎士団主席騎士、ダナーンの守護者である。


−2−


 動かぬ的も馬鹿には出来ない、というのは師匠の口癖だ。師匠が言うには、動いている的というのは実際には絶えず動いているわけではなく、必ずどこかに「止まって見える瞬間」があるらしい。その「止まった一瞬」を確実に捉えようとしたとき、止まった的を狙う訓練が生きてくる。ただ適当に突けば良いのではない。相手をどうしたいのかで、狙う部位は変わるのだ。剣などの「斬る」武器との最大の違いはそこにある。剣も狙いを定める必要はもちろんあるが、この武器は更に精密に狙いを絞らねばならない。
「……たぁっ!!」
 気合一番、これだという一点に武器を突き出す。が、返ってきたのは藁束に穂先が突き刺さる感覚ではなく、硬質の金属音と強い反動。たまらず尻餅を突くと、師匠の扇子が容赦なく額にペチリと追い討ちをかけてきた。
「阿呆、気合は要らぬと言うてるじゃろうに。」
「あいてて……。」
 言うまでもないが、痛いのは師匠の扇子ではない。本気で師匠に叩かれたら、きっと目を覚ましていられる保障すらないだろう。尻餅にしたって、土の地面の上なので大したことはない。
「藁人形は動かんから良いが、決闘だったら命取りじゃぞ。」
「はい……」
 じんじんと鈍く痛むのは、武器を手にしていた両手。金属製の模造鎧を思い切り突いた衝撃が、もろに跳ね返ってきたのである。
「行けぬだと思ったら突き抜かぬ……容易では無いが、修練して損はせぬぞ。」
「はい、練習しておきます。」
「うむ……まぁ、だいぶまともにはなってきたのぅ。確実に狙いは定まってきておる。」
「ほんとですか!?」
 師匠が藁人形に近付いて手招きをしてみせる。言われて寄ってみると、模造鎧に付けられた傷跡がよく見えてくる。
「ほれ、だんだん寄ってきておるじゃろ?」
「あ、ほんとだ……えへへ。」
 一番近い傷跡は、拳一つ分もずれていなかった。まさにもう一息。
「まぁこれに慢心せんことじゃな。槍の扱いは集中力の勝負、精神修養を怠るでないぞ。」
「はい! ありがとうございました!!」
 大きくお辞儀をして模造槍をきちんとしまう。昼御飯の前の訓練はこれにて終了である。

 セ=タンタが師匠――スカーサの元で暮らすようになってから、かれこれ四年が経とうとしていた。ここに来た頃のことはよく覚えていないのだが、スカーサはセ=タンタが物心付いた頃から、彼女を実の子のように扱ってくれていた。母は事情があるらしくて一緒には暮らしていなかったが、旅の途中でちょくちょく立ち寄っては、土産話を聞かせてくれた。

――「もうすぐ七つの誕生日だよね。はいこれ。」

 なぜか母は、誕生日の前後どちらかに現れる。今年は誕生日の数日前に突然現れて、新しい模造槍をプレゼントしてくれた。セ=タンタの体格によく合った寸法で、使い心地は抜群だ。母もスカーサに引けを取らぬほどの槍の使い手であり、品定めの目に狂いは無いということなのだろう。
「槍だけなら儂の方が上じゃい。」
 スカーサはよくそのようなことを言う。ただしこれは決して自惚れや嫉妬から来るものではない。何故なら必ずこう続けるからだ。
「……あやつの異常なところは、それに劣らぬ精度で剣をも操ることじゃがな。」
 槍と剣はあまりに性質の違う武器であり、その両方を人並み以上に操るのは決して容易いことではない。が、ルーはそれを難なくやってのけるのだ。かつて彼女が扱っていた槍は「光槍」と讃えられ、振るっていた剣は「魔剣」と恐れられていた。しかし、実際にはそれらの品は、世間一般に出回っている量産品だった。それを知る者はごく一握りであるため、「光槍」と「魔剣」の伝説は現在も健在である。
「まぁ、あのような器用な芸当は出来んでも良い。そもそもに、まだまだ槍の腕も未熟なのじゃしな。」
 まったくもって師の言う通りだ。母も素養があったとて、修練せずにその域へ上り詰めたはずが無い。とりあえずは、いま学んでいることを少しずつ極めていくことが大切だろう。
「ところで、明日なんじゃがな。」
「はい。」
「久々に町に降りようと思っておる。もちろん、お主も一緒にの。」
 この山には動物も草花も多種多様に存在しており、幸いにして食べる物には困らない。こういうところに長く暮らしているスカーサは、調味料の類も殆ど自前で用意してしまうため、町に出るのはよほどの事情がある時に限る。
「……ユリシーズですか?」
「いや、ガリヴじゃ。」
 その答えを聞いて安堵の溜め息を漏らすセ=タンタ。
「まったく、お主の人間嫌いも筋金入りじゃのう。」
「いえ、べつに嫌いじゃないんですけど……」
 ダナーン公国の首都であるユリシーズは、首都らしい賑わいを見せる大きな町なのだが、普段から人間慣れしていないセ=タンタにしてみると、雑踏を歩くだけでも決して軽くない疲労を伴うのである。
「ガリヴのが、のんびりしてて好きなんです。」
 ダナーンの西方に位置するコナハト侯国の首都ガリヴは、首都と名乗るにはあまりにも長閑な田舎町で、そこに暮らす人々もどこかのんびりとしている。年に一度の演劇祭の折りには、普段からは考えられないほどの賑わいを見せるが、それ以外の季節には余所から訪れる人も殆どいない。
「ガリヴってことは、買いものじゃないんですよね?」
「うむ。ちょいと人に会う用事があっての。お主も一緒の方が都合が良いのじゃよ。」
「僕が……ですか?」
 買い物であるなら荷物持ちに使えるからわかるのだが、なぜ誰かに会うのにセ=タンタの同行が好都合になるのだろう。
「そう心配そうな顔をせんでも良いわ。お主が知らぬ相手ではないから安心せい。」
「いえ、心配ってわけじゃ……」
 スカーサの修行は厳しいが、セ=タンタを酷い目にあわせることは決してなかった。だからその行動に不信感を持つ必要は無いのだ。ただ、純粋に疑問だったのである。
「確かあやつのところも同じぐらいじゃったな……うむ、退屈はするまいて。」
 スカーサは自分の独り言に自分で頷いている。自己完結されてしまっているので、セ=タンタとしては何のことか全くわからない。
「まぁ明日になればわかるわい。」
 食後の休憩はここまで、と言った風に、スカーサが食器を手に立ち上がる。余所の師弟がどうなのかは知る由も無いが、この師弟の間では自分の使った食器は自分で洗う決まりになっている。
「片づけが終わったら出かけようかの。」
「はいっ。」
 いつも通りであれば、目的地は山の麓の樹海だろう。出かけると言っても、もちろん遊びに行くわけではない。

 師弟の住居であるこの天然洞窟では、動かぬ的を相手に修練を行うことしか出来ない。実戦勘を養うためには動く的、すなわち組手を行う必要がある。しかし、まだ未熟なセ=タンタが師と手合わせをしたところで、その内容は組み手と呼べるレベルに至らない。そしてこのような山奥に、彼女たち以外の人間などそうそう現れない。たまに現れる母もスカーサと同じ理由で対象外だ。
 そこでスカーサが白羽の矢を立てたのが、麓の樹海の「住人」たちである。個体数は非常に多く、各々の立ち合いはバリエーションに富み、並みの兵士よりもよほど鋭い動きを見せ、何よりも相手を仕留めることに対する執念は凄まじい。

 実戦訓練の相手、樹海に住む猛獣たち。セ=タンタにとってみれば、修行であると同時に食料調達の手伝いでもあった。


−3−


 薄暗い森の中で幼い少女が一人、大木の根元に座り込んでいた。年の頃はまだ七つほどか。両肩を包むようにふわりと伸びた金髪や、やや吊り目気味だが大きく形の良い瞳は、さながら人形のようである。そんな可愛らしい容姿に加え、見るからに身なりも良く、このような荒れた地には相応しくない風貌だった。
「あの人たち、そろいもそろって大ボケもいいところよ……」

 山の麓の森には絶対に一人で行ってはいけない。何故ならば、人を捕えて食べる恐ろしい怪物が住んでいるから。それが、大人たちがよく彼女に言い聞かせる戒めの一つである。
 しかし、これが嘘であるということを彼女は知っていた。怪物の正体は、お腹をすかせた凶暴な動物たちなのだ。彼女が大好きな演劇の中にも、似たような話がある。通りすがりの剣豪が怪物退治を頼まれて森に入ってみると、襲ってきたのは巨大な虎だったという内容だ。

「……動物も……こわいわよ、ね。」
 問題はそこだ。怪物がいるのが嘘だとしても、一人で行ってはいけない根拠は確かに存在する。もちろんそんなことは重々承知であるから、3人もの番兵さんに付き添ってもらったのだ。
「……あーもうっ、何であんなところにガケがあるのよ!!」
 彼女が忌々しげに睨みつける視線の先には、崖と呼ぶにはやや大袈裟な、しかし角度のかなり急な斜面がある。一部が高い草叢の影になっていて、ある方向からの遠くからの視認は困難そうだった。斜面には滑落の形跡がいくつか残されており、近い過去に何者かが足を踏み外したと窺い知れる。そしてその跡の数は、全部で三つ。
 そう、滑落の被害者は、少女に随行してきた番兵たちである。一人がうっかり足を滑らせ、それを助けようとして手を伸ばしたもう一人が一緒に引き込まれ、それを助けようとした三人目も同様に――それは芸術的とすら言える間抜けな光景だった。斜面の底部はさほど深くも無かったが、斜角が斜角であるため、同じところを登って引き返してくることは出来なそうであった。
「だからって、こんなところにレディを一人でまたせるなんて……大ボケのうわぬりだわ!!」
 最近覚えたちょっと難しい言葉を使ってみるも、当然ながら誰からも返答はない。こちらに登れる道を探して戻ってくると彼らが去っていってから、もうどれぐらいの時間が経っただろうか。このままでは、いずれ日が暮れてしまう。
「……でも、いちばんの大ボケは私かな……」
 それまでの勝気な声色から一転、少女はうつむきがちに、溜息混じりの自虐を口にした。こうやって気が沈むのが嫌だったから、無理にでも八つ当たりを吐き出していたのに。

 元々の原因は、彼女自身の好奇心にあった。演劇の中に出てくる「深い深い森」というのが一体どのようなものなのか、この目で見たくなってしまったのだ。しかし、少女が住むガリヴ市街の近くには、そのようなものは存在しない。そこで、ダナーンまでまたがる大山脈の麓にある、広大な樹海に白羽の矢が立ったのである。
 初めは渋っていた父だったが、少し見物したらすぐに帰ると約束すると、快く特急馬車を手配してくれた。腕の良い鍛冶屋である父は多忙を極めているため、出かける時は代わりに番兵さんが付き添ってくれる。彼女も父の立場は理解していたので、その状況に不満を感じたことは無い。

「父様、心配してるかしら……」
 すぐに戻ると言って出てきてしまった手前、帰還が遅れると余計な心労をかけてしまいかねない。母を病気で亡くしてこの方、父は愛娘に対してかなり過保護になっていた。大きな怪我などして帰ろうものなら、熱を出して寝込んでしまうかもしれない。もちろん、それほどに愛されているのは嬉しいのだが、いずれ来るべき時に、きちんと子離れしてくれるのか不安に思う時もある。

 とりとめもなく考え事をしているうちに、視界の隅にある草むらが葉擦れの音を立てた。番兵さんたちが戻ってきたのだろう。少女はそれまでの弱気な表情を隠すと、満面の笑みを浮かべてそちらに顔を向ける。「リョウケのレイジョウは常にユウビであれ」というのが亡くなった母の口癖だった。難しい言葉が多くて正確な意味はよくわからなかったが、要は「いつも可愛く堂々としていなさい」ということらしい。
「大変でしたね、だいじょうぶです……か……」
 そして、相手が番兵さんだろうが召使いさんだろうが、きちんとした言葉遣いが出来るようにすべしというのが、父が常日頃から彼女に言い聞かせていることである。娘には大甘の父も、このことに関してだけは厳しい。もっともこれも母が生前に心がけていたことらしく、よく「うつくしい言葉からキヒンは生まれる」と言っていたそうだ。要は言葉遣いが綺麗じゃない女の子は可愛くない、ということなのだろう。一人でいる時や仲の良い友達と一緒の時は口の悪い彼女だが、公の場ではきちんとした「お嬢様」として振る舞っている。

 もっとも、それは相手があくまで「人間」である場合の話である。
 しかし今、彼女の前に現れたのは――

「……ひ……きゃぁむぐぐっ!?」
 その恐ろしい姿に思わず悲鳴を上げそうになったが、直後に何者かに口を塞がれる。口に当たっている感覚からして、こちらは紛れもない人間のようだ。
「大きな声を出しちゃダメだよ。まだあっちもこっちの様子を見てるだけだから。」
 話し方は男の子のようだったが、その声は女の子のものだった。特に口を塞ぐ以上の束縛も無いので、声の主の方へゆっくりと振り返る。
「大丈夫。僕はオオカミじゃないから、君を食べたりしないよ。」
 短く雑に切り揃えられた髪と、幼いながらも精悍な顔つき。造形は非常に良いが、可愛いというよりは凛々しいと言う表現がしっくり来よう。
「僕の後ろに下がって。」
「ちょっと……あなたはどうすんのよ?」
 この緊急時に丁寧な言葉遣いなど意識していられない。恐らく歳も同じぐらいだろうから、大して失礼にもならないだろう。
「あいつなら何とかなる……と思う。」
 よく見ると、この凛々しい少女は一本の長物を手にしていた。番兵さんたちが訓練の時に使っている練習用の槍――模造槍だ。
「ウソでしょ!? そんなニセモノの槍であいつを……」
 先ほどから二人の少女を睨みつけているのは、一匹の大きな狼だった。お腹をすかせているのか、低い唸り声を上げながら低く身構えている。
「大きな声を出しちゃダメだってば。」
「そんな大ボケ言われたら誰だって叫ぶわよっ!!」
「ああ、また……」
 次の瞬間、複数の音が続けて発せられた。威圧感を帯びた咆哮、狼が地を蹴る音、一拍置いて狼の悲鳴。
「え、え、えっ?」
 まさに瞬く間の出来事だった。あれだけ恐ろしい存在に思えていた狼は、犬のような悲痛な鳴き声を上げながら、木々の間へと走り去ってしまっていた。槍の少女は特に何事も無かったかのようにしているが、その手に構えた模造槍が全てを物語っていた。もう大丈夫と判断したのか、すぐに槍を下ろしてこちらに向き直る。
「えっと……君……えーと……」
 何か言いたそうだが、一言目の先が続かない。何となく、何を答えれば良いのか想像がついた。
「メイヴよ、メイヴ・フォーガル。」
 名乗った瞬間に明らかな安堵の表情を浮かべたところを見ると、やはりこちらの名前がわからずに困っていたのだろう。何も呼称に困ったなら「君」と言い続ければ良かっただろうに、変に几帳面なところがあるようだ。
「メイヴ、君、3人の大人と一緒にここに来た?」
「きたわね……あのひとたち、どこかで寄り道でもしてた?」
「寄り道っていうか……いや寄り道なのかなぁ……でもあれって寄り道じゃないかも……うーん……」
「あーもう、はっきりしなさいよっ!!」
 思わず叫んでしまってから、メイヴは慌てて口を自ら両手で塞ぐ。また別の獣が騒ぎを聞きつけて現れるかもしれないのだ。一対一ならこの槍使いの少女が何とかしてくれそうだが、数の多い群れなどが来たらどうなるかわかったものではない。力で劣る者が結託して強者を倒す活劇は、演劇の王道の一つである。
 とにかく、自問自答を繰り返されても埒があかない。きっとこいつは何かを知っている。
「とにかく、番兵さんたちを見かけたのね?」
「うん。というか……」

 彼女が語るところによると、狩りのために樹海に来てみたら、3人の大人が大木を背にしてへたりこんでいたらしい。初めは行き倒れかと思って慌てたそうだが、話を聞いてみると、ただ疲れて休んでいるだけだったらしい。
 そして、この少女が樹海を歩きなれていることを知った大人たちは、「身なりの良い女の子がどこかにいるはずだから探してくれないか」と彼女に頼み込んで来たそうだ。彼らは必死で伏せていたものの、おそらくは道に迷っていたのだろう。

「やっぱり、そろいもそろって大ボケばっかりだわ……」
 一通りの事情を聞き終わったメイヴは、眉間を押さえて唸ってしまった。どこかで休憩中の三人に届くほどの大声で罵倒してやりたかったのが本当のところだが、そんなことをすればここに御飯がありますよと獣たちに知らせることになる。大ボケにつられて自分まで大ボケになることは無いだろう。
「つれてってもらっていいかしら?」
「うん、僕もそう頼まれてるしね。」
 先に歩き始めた少女の後を追って、ふとメイヴはあることに気付く。
「あ、さっきのお礼してなかったわね……」
「え?」
「狼から助けてくれたでしょ? ありがとう……えっと……」
 お礼よりも先に尋ねなければならないことを忘れていた。しかし一度言葉を発した以上、今更聞き忘れていましたと正直に白状するのも癪だ。槍の扱い以外はいかにも鈍感そうなこの子が気付くかどうか――
「……どうしたの?」
「……んっと……うぅ〜……」
 気付いて、お願いだからがんばって気付いて。
「ああ!」
 やっと気付いたのか、手をぽんと鳴らしてみせる。
「お金なんかいらないよ、僕、山と森からほとんど出ないし。」
「違うわよ!!」
 こいつ、予測以上の大ボケらしい。
「……名前。」
「え?」
「名前聞いてないでしょ、あなたの。」
「ああー、そうだったかも。」
 人には名乗らせておいて、なかなかいい度胸をしている。
「僕はセ=タンタ。そこの山に、師匠と一緒に住んでるんだ。」
 この山に住んでいる「師匠」と呼ばれそうな人物に心当たりは有った。しかし、こんな大ボケな子供を弟子に取ったりするとは思えないのだが、そうすると他に住人がいるということなのだろうか。
「ふぅん……まぁいいわ、とにかく……」
 メイヴはセ=タンタの側方に素早く回り込み、自分より少しだけ高い位置にあるセ=タンタの頭を軽く引き寄せる。
「ありがとね、セ=タンタ。」
 頬に軽く口づけて身を離すと、セ=タンタは目を丸くして固まっていた。
「え、あ、うん、どういたしまして。」
「命を助けられたときは、こうしてお礼をするものがジョウシキなんですって。」
「そうなんだ……」

 もちろんそれは、劇の中の決め台詞で使われた表現であって、現実の世の中の常識ではない。そのことをメイヴが知って愕然とするのは、もう少し後のことである。


−4−


 アイアランにこの人有り、と言われる腕利きの鍛冶屋がいる。名はクラン・フォーガル。霊機中心の戦争が主体となった現代でも、その腕を頼って来るものは後を絶たない。理由は至って明快、霊機の武器も時にはメンテナンスを必要とするからだ。彼はエーテル金属の扱いにも浅からぬ知識を有しており、古くから伝わる鍛冶の技をあますことなく、霊機用武器のメンテナンスに生かすことが出来る。まさに温故知新の技巧と言えよう。
 そんなクランの名声はアイアランのみに留まらず、ペンドラゴンを主としたブリタニア大半島の諸方からも、少なからぬ数の依頼が寄せられる。中には一切の身分を隠して訪ねて来る者もおり、クランに近い者などは「大陸からやってきた依頼者なのではないか」と推測しているらしい。
 そのクランが居を構えるのは、アイアランで最も栄えるダナーン公国の首都ユリシーズでは無く、コナハト侯国の首都ガリヴだった。その理由はいくつか上げられるが、早逝した彼の愛妻が生まれ育った地であることが、最も大きな要因であるらしい。

 今宵、このクランの屋敷に数名の要人が集っていた。彼らは定期的にここに集合し、とある案件についての報告と協議を重ねている。
「さて……皆様お集まりかな。」
 長方形の卓を囲むように4名の人物。下座には薄い口髭を生やした長身の中年の男。彼がこの屋敷の主、クラン・フォーガルである。
「ユーサー陛下は今回は参加なさらぬとの伝達があった。姫君の誕生日が近いので、祝い事の準備にお忙しいそうだ。」
 向かいの席、上座に着いているのは、クランより幾ばくか歳を重ねていると見られる、中肉中背の男。この人物こそダナーン公国の統治者である、コノール・マックニエッサ公爵その人だ。体格こそ大柄とは言いがたいが、その立ち居振る舞いからは、凡夫衆生では持ち得ぬ覇気が感じられる。
「なるほど、相変わらず子煩悩なお方ですなぁ。」
 コノールの知らせに破顔するクランだったが、ちょうど両者の中間ほどの席に座した壮年の男が、半身を乗り出して声を荒げた。
「し、しかし、『奴ら』の最近の動きは不穏を極めておりまする。陛下のご協力を賜る事態もあり得るこの状況下でそのような……」
「言うでない、コナハト侯。」
 落ち着かない様子でまくし立てるのをコノールに諫められたのは、このコナハト侯国を治めるアリル・クーリー侯爵だった。
「ユーサー陛下があのように剛胆な方であるからこそ、我らの統治にこれほどの自由が認められているのだ。悪く言うものではない。」
「は……これは失言でございました。」
 自治領時代からのコノールの腹心であるアリルにとって、その言葉は天啓に等しい。アリルが口を噤んだのを見計らって、クランはもう一つの空席を見やりながら誰にともなく尋ねてみせる。
「して、もう一人の剛胆な御仁もご不在のようだが?」
「あやつはユーサー王以上に破天荒じゃからな。居ないときは居らぬし、居る時は居る。それだけじゃ。」
 この場の誰よりも年期の入った内容の言葉を、この場の誰よりも幼い声が紡ぎ出した。この重鎮の集まりの中にあって、異彩を放つその姿。
「もっとも面白い報告は聞いておるがの。あれで仕事だけはぬかりなくこなすから扱いに困るわい。」
 眉間に手を当てながら首を振って見せているのは、見た目には齢十三、四の少女。しかしその実体は、ダナーンとコナハトの両国に技術提供を行い、客員戦技指導教官としても厚遇されている「影の魔女」と呼ばれる人物だ。
 その正体については諸説あり、悠久の時を生きる魔性の者であるとか、人と同じように動き話す人形の化生であるとか、或いは山を守る神の化身であるとか、噂だけを並べればキリはない。
 公に明らかとなっているのは「スカーサ」という名前と、フォモール解放戦役の裏で活躍していたこと、そして現在もアイアランの平和維持に一役買っているということだけだった。
「ふむ、ルー・ドルドナからの報告とはいかに?」
 この集会の今日の欠席者は二名。片方は先ほどから名が挙げられていたペンドラゴン王国の主、ユーサー・ペンドラゴン。そしてもう一人が、いま名を呼ばれたフォモール解放戦役の英雄、ルー・ドルドナである。
「教会のものと思われる巨大な輸送船が、オルモンドの南方沖で見つかったそうじゃ。かなりのサイズの箱を積んでおったらしい。中身は十中八九……」
「霊機……か。」

 アイアラン島には三つの国家が存在している。北方連合の中ではペンドラゴンに次ぐ国力を有するダナーン公国、ダナーンと同盟関係にあるコナハト侯国、そしてアイアラン南西部の小国であるオルモンド伯国。このオルモンドがダナーンとコナハト、ひいてはペンドラゴンにとっての悩みの種だった。
 北方連合は基本的に、教会主流派であるフォスファー派とは対立路線を敷いている。ペンドラゴンは国教会を立ち上げ、独自の規約に従って霊機を運用しており、ダナーンとコナハトもまた、ペンドラゴン国教会の分派である新派の元に霊機運用を行っている。
 しかし、オルモンド伯国だけは事情が違っていた。北方連合の中で最果てとも呼べる地に存在するオルモンドは、海運を活用したフォスファー派の教化政策をしかけられ、その主権を完全に掌握されてしまったのだ。
 それ以来、テロというほどでないにしろ、得体の知れない事故や事件がアイアラン各地で発生するようになった。狙われるのは常に国教会関連の施設であり、特に霊機の関係施設が狙われるのが国防上大きな問題となっていた。その被害も爆発事故から部品の盗難まで多種多様。非常事態下で同様のことが起きれば、致命的なことになりかねない。

「も、もしも本当に霊機だとすれば、重大なフィラデルフィア・ガイドライン違反では……!?」
「フォスファー派が裏で動いている以上、ガイドラインなど形骸ですら無かろう。問題はそこではない。」
「うむ。確実に戦力を集めておるのぅ、オルモンド伯め。」
 先の戦役では、オルモンドの前身にあたるミューマン自治区に霊機戦力は存在していなかった。しかしフォスファー派の介入以降、霊機配備数は着実に増加しており、巫女の育成も国外留学を中心に活発に行われているようだった。
「今のところ、ルーレやケンペルに目立った動きは無い。本来ならば、ガイドラインに従った増強でも国防上問題は無いはずだ。」
 北方連合全体が大陸列強との戦争状態に突入すれば、オルモンドとて他人事では済まされない。だが、自国が危険に晒されるその前に、ペンドラゴンやダナーンを盾とできる事実を考えれば、軍備増強を焦る必要はないはずなのだ。つまりオルモンドが軍備増強の基準としている仮想敵が、大陸の列強だとは考えにくい。
「や、やはり奴らの狙いは……」
 顔中をひきつらせながら、半ば悲鳴にも近い声を挙げるアリル。それまで黙して協議を聞くのみだったクランが、かすれて消えてしまったアリルの言葉の末尾を拾うように続ける。
「アイアランの覇権……いや、ペンドラゴンすらも見据えているかもしれませんな。」
 北方連合を手中に収めたところで、辺境の小国にすぎないオルモンド伯国にそれを統治する術は恐らく無い。しかし、その裏で暗躍しているのは教会のフォスファー派。全世界を聖母信仰の元に統一しようとしている彼らは、オルモンドを隠れ蓑とした北方侵攻を企てているのだろう。
「オルモンドの反乱の体を取るか……いや、情報操作の精度如何では、ソフィアン派のテロ活動に見せかけてくるかもしれん。」
 ソフィアン派は、フォスファー派の偶像崇拝的な霊機信仰を否定し、更にその腐敗への批判から結成された聖母教会の新派の一つである。しかし現在は反フォスファーの機運ばかりが先立ちすぎ、破壊活動をいたずらに繰り返す地下組織と成り下がってしまっている。
「或いは、実際にソフィアン派を焚きつける可能性もあるのぅ。」
 フォスファー派の教義に懐疑的であるという点に関しては、立場的にソフィアン派とそう遠くないはずの国教会だったが、現在の無差別攻撃集団と化しているソフィアン派からは、その「活動」の対象として認識されているようだった。とは言え、彼らはフォスファー派への攻撃を最優先としているため、今のところ国教会が大きな被害を被ったことは無い。せいぜい小規模な小競り合いが国境付近で起きているだけである。
「先日の斥候の報告にあった霊機の配備規模と巫女の訓練精度から見て、少なくともまだ……恐らくあと数年は、大きな軍事行動は起こせないだろう。」
「が、いずれは確実に戦が起きるのぅ……それがどのような形であれ、じゃ。」
「備えを、急がねばなりませんな。」
 狼狽するあまり言葉すら出なくなったアリルを置き去りに、重鎮たちは話をリズミカルにまとめてゆく。コナハト侯はダナーン公の腰巾着に過ぎない、などと民に揶揄される所以は、このあたりにあるのだろう。
「さて、今宵はこのあたりにしておこう。あまり先回りをしても益体あるまい。」
「では用意をさせましょうか。しばし、客間でお待ちください。」
 彼らがこの館に集まるもう一つの目的が、この協議の後に行われる晩餐会である。敵情の確認は確かに重要だが、同胞の近況確認もまた、戦術的に重要な要素の一つである。もちろん、普段は職務に追われて顔を合わせられない面々が、寄り集まって談話を交わすという交際的側面も大きいのだが。
「クラン殿。」
 コノールとアリルが早々に部屋を出ていった後、スカーサがクランの袖を引っ張った。自身もまた退室しようとしてたクランは、スカーサの方へ向き直ると、言葉は発さずに二の句を待っていた。
「例の件、宴の折りで良いかの?」
「……ああ、あの話か……」
 前回の晩餐の折り、スカーサがクランに持ちかけたある「依頼」。その答えを返すことになっているのが今日だった。
「本当に、それでいいのか?」
「どちらにしろ、いずれその時はやって来る。だったら早い方がええじゃろうて。」
「そうか……」
 きっと最も辛いのは、それを提案したスカーサ自身なのだ。それでも彼女は、意志を曲げないと言っている。だから、クランもそれ以上は何も言わなかった。
「ところで、話題の主役はどうしたんだ?」
 一緒に連れてくるという話だったはずだが、どこかに待たせている様子が見受けられない。
「ああ、あやつならちょいと人助けじゃ。そろそろ『着く』頃ではないかのぅ?」
 悪戯っぽく歯を見せて笑うその表情は、見た目相応の可愛らしい子供そのものだった。最も、実際の年齢に相応しているかは怪しいところではあったが。


−5−


 樹海や山岳地帯は足場に不安定な場所が多いため、基本的に馬車が避けて通る領域である。そのため、セ=タンタは生まれてこの方、馬車というものに乗ったことが殆ど無かった。まして特急馬車などというものは、それが存在するということをかろうじて知っている程度だった。
「うわぁ……速い……!!」
 客車の窓から見える景色が、凄まじい速度で流れていく。まるで自分自身が馬になったかのような感覚だ。
「どうだい、乗り心地は?」
「最高です!!」
 どう最高なのかを説明しないと答えになっていないような気もするが、それをしっかりとした言葉にまとめられるほど心が落ち着いていなかった。
「でもいいんですか、タダで乗せてもらっちゃって……」
「何言ってんだい、君が助けてくれなかったら、こいつはまだあの野っ原の真ん中で立ち往生してたんだよ?」
 時間は二刻ほど遡る――

 ガリヴに行く時は大抵、山の麓までスカーサの知り合いの御者が迎えに来る。馬も生き物なので、速度の安定性には多少の不安がある。今日も予定の時間よりもかなり早めに呼び寄せていたはずだった。
「……遅いのぅ。」
 約束の刻限になっても、馬車が待ち合わせ場所に現れない。順調に移動が行われるならば、まだ問題の無い時間ではあるのだが。
「……あ、来ました!」
 街道沿いの遠方に見える小さな影が、その姿を徐々に拡大させる。舗装がいまいち行き届いていない地域のため、影が進むのに合わせて土煙が舞い上がっていた。
「本来の刻限にはまだなっておらんというのに、律儀な奴じゃ。」
 その舞い上がり方から見るに、御者は馬をかなり急がせているようだった。程なくして小型の馬車がその姿をはっきりと見せる。少数の客を乗せることを前提に設計されているようで、客車を引く馬も馬車馬にしては小柄だ。
「すまんね姉さん、遅れてしもうて。」
 スカーサとセ=タンタの目の前で馬の足を止めさせ、御者が軽やかに御者席から飛び降りてくる。見た目には壮年と表現して差し支えない容貌であるが、職業柄か運動能力は若者並みにあるようだ。
「構わぬよ。待たせて問題のある相手でも無いしのぅ。」
 本気か冗談かそんなことを言って笑いながら、スカーサは足早に客車に乗り込んだ。セ=タンタも御者に一礼してから後に続く。
「しかし珍しいのぉ、時間には律儀なお主がこれだけ遅れるとは。」
 ゆっくりと走り出した車内から、スカーサは御者に大声で話しかける。客車の車輪は結構大きな音を立てて転がるので、あまり小さな声では呼びかけられたことにも気付かないのだ。
「いやぁ、面目ない。ちょいと難儀があってねぇ。」
 御者はこちらに振り返り、頭を掻きながら苦笑してみせる。丁寧に謝ってくれるのはありがたいが、危険なので脇見運転は勘弁してもらえないものだろうか。
「仲間の特急馬車が道中でイカれちまってねぇ。馬の方は元気なんだが、客車の方の車軸が逝っちまったらしい。」
 修理しているところにたまたま通りかかり、手助けしているうちに時間が経過しすぎてしまったという話だった。
「そろそろだと思うんだが……おお、いたいた。」
 樹海を出てすぐの広大な草原地帯、その一角に留まっている奇妙なシルエット。近寄って見てみれば、馬と人と客車が合わさった影だということがわかる。主人がせわしなく作業している様子を、馬車馬がおとなしく静止したまま見つめていた。
「おう、調子はどうだい。」
「おー、あかんわ、手こずってるんよ〜。」
 補助用の台座に乗せられて宙に留まる形になっている客車からは、車軸と車輪が外されていた。馬の脇に打ち捨てられている長く細い棒状の物体が、その駄目になった車軸であろう。一見して何も異常が無いかに見えるが、目を凝らしてみると無数の細かいヒビが入っているのがわかった。
「そのぐらいの傷でも、取りかえないといけないんですか?」
 馬車のことはよくわからないが、とりあえずセ=タンタは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「ああ、普通の馬車だったらもう少し大丈夫なんだけどな。こっちは走行中に何かあったら大惨事に直結だから、早め早めに手入れしないといけないんさ。」
 話にしか聞いたことがないが、特急馬車というのは結構な速度で走るらしい。なるほど、確かに走行中に車軸が折れでもしようものなら、何が起きるかわかったものではない。馬は急には止まれないのだ。
「いつもは見習いの若いのに手伝わせるんで、こんなに時間はかからないんだが……今日に限って奴さん風邪で寝込んでてねぇ。」
 御者のその言葉を聞くや、スカーサがセ=タンタの脇から顔を出す。
「ふむ、ならばウチの見習いを貸してやろうかの。」
「おや、魔女の姉さんじゃないか。」
「技術的なことは手を出させられんが、手伝えることは少なくないじゃろう?」
「いいのかい? 一緒にどこかに出かける予定なんだろう?」
 突然の申し出にこの場で最も驚いていたのは、手伝い候補に指名されたセ=タンタ本人だったのだが、あまりの唐突さに言葉を挟めずにいた。
「その代わり、馬車が直ったらガリヴまでこやつを乗せていってくれんかの。」

 かくして、セ=タンタはスカーサの独断により、特急馬車の御者の臨時助手を勤めることとなった。細かい技術的なことはよくわからなかったが、力仕事や道具の受け渡しなど、作業を速く進めるために手伝えることは多かった。
「さぁ、そろそろガリヴに着くよ。」
「え、もうですか!?」
 いつもの馬車だったら、まだ平原の真ん中をのんびりと移動しているぐらいの時間だろう。やはり特急と言うだけのことはある。
「町中のどこへ行くんだい?」
「あ、クラン様のお屋敷ですけど……いいんですか?」
 以前にスカーサから聞いた話によると、特急馬車は町外れの乗り場までしか行かないという話だったのだが。
「普通の客なら乗り場でお別れだが、今回は特別サービスだよ。おかげさんで夜がふける前に帰って来られたからねぇ。」
 町中に入ると、さすがの特急馬車もそのスピードをかなり緩めていた。確かにあのような速度では、いくら馬車用の広い道でも危険極まりないだろう。
「今日は昼から町が何だか物々しかったが、お偉いさんでも来てるのかねぇ?」
「そうなんですか?」
「衛兵がやたらピリピリしていたよ。こっちも釣られて落ち着かないから、変なミスもしちまったねぇ。」
 そりゃ言い訳か、とケラケラ笑ってみせる御者。そうこうしているうちに、道の遠方に大きな館が見えてくる。
「さて、そろそろ到着だ。忘れ物しなさんなよ?」
「はい、ありがとうございました。」
 持ち物と言えば背中のホルダーに備えられた模造槍だけなので、忘れ物の心配は無かった。スカーサに連れられて町を訪ねる折りには、念のための護身用にこれを持ち歩かされているのだ。スカーサが同行している時は良いが、場合によっては手分けして買い物をするときもあるので、万が一のための備えというやつである。
 クラン・フォーガルの屋敷を訪問するのは初めてだった。クランとはガリヴの町中にある飲食店などでスカーサに同行している際によく顔を合わせていたが、実際にこうやって住居を訪ねた経験は無い。考えてみれば、セ=タンタは彼の家族構成すら全く知らないのだ。知識として有るのはスカーサとは旧知の仲であることと、凄腕の鍛冶屋であることくらいであった。

 走り去る馬車の背に軽く手を振ってから、セ=タンタは屋敷の門へ向き直る。入口にいる門番に身分を告げれば案内してくれるはずだとスカーサから聞いていたのだが――
「誰もいない……よね。」
 門は固く閉じられているが、それを管理する番兵がいない。まさか無断で門を乗り越えるわけにもいかず、セ=タンタはしばしその場に立ち尽くしてしまった。
「……すいません、誰かいませんか〜?」
 だからと言って師匠に無断で帰ることも出来ないので、とりあえず自分の現在の疑問を正直に口に出す。人の住む屋敷へ呼びかけるには不適切な言葉な気もしたが、この状況では責められても酷な話である。
「ワケのわからないこと言ってるのはどこの大ボケよ!? いないわけないでしょ!!」
 しかし、返ってきた声は容赦なくセ=タンタを責めていた。塀の裏側から幼い少女の叫ぶ声。聞こえた感じではセ=タンタと大して歳は変わらないようで、少なくとも番兵では無さそうだ。しかし見ず知らず、というか姿さえ確認できていない相手に開口一番でこの罵声、聞き覚えがあるような気がしてならない。
「え……君は……」
 格子の扉の向こう側に現れたのは、一度だけ見たことのある顔。
「……森の大ボケじゃないの。」
 それは昨日セ=タンタが樹海で助けた少女、メイヴだった。

 名前を聞いたときに、何かが引っかかってはいたのだ。わかってしまえば何と言うことはない、メイヴの姓がクランと同じことだった。
「メイヴってクラン様の子どもだったんだね。」
「父様を知ってるのにぜんぜん気付かないなんて、どれだけ大ボケなのよあなた……。」
 門から館へ続く道を歩きながら、メイヴは容赦の無い指摘を飛ばしてくる。
「あまり似てないから気づかなかった。」
「それ以前の問題よ……」
 父親似の女の子だって決して少ないわけでは無いから、目の付けどころとしては悪くない気もしたのだが、メイヴの呆れ顔と溜息がそれを否定していた。
「むしろ、あなたがスカーサ様の弟子だっていう方がびっくりだわ。」
「どうして?」
 確かに師匠と自分はあまり似ていないが、実の親子では無いから似てないのは無理もないのでは――
「……似てる似てないの問題じゃないわよ?」
「え、何でわかったの!?」
「……何となくよ。」
 スカーサからもよく「考えが顔に書いてあるわい」と言われがちだが、そんなにわかりやすいのだろうか。
「あのソウメイでりりしいスカーサ様のお弟子さんだし、きっと素敵なレディなんだと思ってたわけ。」
「ソウメイで……りりしい……?」
 言葉が難しくてよくわからないが、メイヴが何か大きな勘違いをしているのは何となく予想出来た。恐らくはあの人の余所行きの顔しか知らないのだろう。もっともその「余所」なのだから無理もないのだが。
「子どもなのは仕方ないけど、大ボケなのがねぇ……」
「そんなに僕ってボケてる?」
「ボケてる。」
 断言である。ここまではっきり言われると逆に気分が悪くならないから不思議なものだ。
「ただ……」
 言葉を切って足を止めるメイヴ。合わせてセ=タンタも歩みを止めると、突然ずいっと顔を近づけてくる。
「……な、なに?」
「よくよく見るとけっこう可愛いわよね……だまってれば、だけど。」
「へ……?」
 あまり言われたことのない評価だったので、思わず間抜けな声を漏らしてしまう。
「僕が可愛いって……冗談でしょ?」
「可愛いわよ。そんな身軽なカッコしてるから、みんなわかってないんじゃない?」
 からかわれているのかと思ったが、語るメイヴは真顔である。
「……な、何よ、あなたみたいなタイプは可愛いって言われても嬉しくないわけ?」
 何と反応を返したものか、返答に窮して黙り込んでいると、突然メイヴが慌て出した。今さら自分の発言の大胆さに気付いたのかもしれない。
「あ、ううん……もちろん悪い気なんかしないよ……ありがとう。」
 あまり言われないことを言われたことよりも、メイヴに褒めてもらえたということが嬉しかった。

――「そういうところ可愛いわよね、あなたって。」
――「子供らしい感想じゃな……可愛いことを言うわい。」

 母や師匠だって同じようなことは言うのに、何故だろうか、メイヴに言われると妙に照れくさくて、だけどすごく嬉しい。不思議な感じだった。
「……別にお礼なんかいいわよ。思ったことを言っただけ。」
 そっぽを向いてそんなことを言うメイヴの顔は、耳の先まで赤くなっている。気丈な態度に反して、メイヴも内心は相当照れているらしい。鈍い奴だと師匠によくからかわられるセ=タンタだが、さすがに今のメイヴの状態に気付かぬほどでは無かった。

「……あれ……?」
「……なによ?」
 そんな楽しい気分を一気に吹き飛ばすような違和感が、突如としてセ=タンタを襲った。鼻腔に届いた微かな臭い、それは――

――血の臭い……!!

「……どうして……!?」
 その発生源と思われる方向へすぐさま走り出すセ=タンタ。メイヴのことを置いてけぼりにするつもりはないのだが、つい足取りが速くなってしまう。
「ちょっと、どこ行くのよ!? っていうか速すぎ、ちょっと加減しなさいよっ!!」
 予想通りの罵声が背中に投げかけられたが、その言葉に従う余裕は無かった。多数の番兵に守られたクランの屋敷の敷地内で血の臭いがしているなど、只事でないことは確かなのだから。
「……何だあれ……」
 屋敷をぐるりと半周して、広めのスペースに辿り着く。恐らくは裏庭だろう。そこに数名の大人がうずくまっていた。それぞれが苦しそうに顔を歪めて、腕や足などを抑えている。そんな彼らの中心にいたのが――
「……やっと……おいついた……ああーーっ!!」
 息を切らせながらやっと追いついてきたメイヴが、その疲れた様子が嘘のような大声を上げる。
「あの大ボケ犬、またやってくれてるわね……」
 それは犬というよりもはや狼に近いとすら言える、一匹の巨大な猟犬だった。銀色の毛並みに鋭い牙、殺気立った瞳は獣にとどまらず、並みの人間であれば容易く怯ませるであろう。
「『また』って……?」
「あいつ、ウチの番犬なんだけど……力あるくせに頭がちょっと弱くって、じゃれてるつもりでよく番兵に怪我させてるのよ。」
 それで番兵たちがあんな状態になっているのか――否、何かがおかしい。いくら力の余った大型犬がじゃれついたからと言って、あれほど深い傷を負わされるものだろうか。
「また鎖の繋ぎ方が甘くて逃げ出したんでしょうね……どおりで門番がいないわけだわ。」
 細かい経緯はどうであれ、あの番犬を放し飼いにしておくと危険なことだけは、目の前の光景がよく物語っていた。恐らくは今までも犬が逃げ出す度に、番兵総出で事態の収拾に当たっていたのだろう。
「……でもあいつ、あんな唸り方したことあったかしら。」
 初めこそ呑気に事態を見ていたメイヴだったが、見た限りでも番兵たちの疲弊が尋常でないということもあって、さすがに違和感を覚え始めたようだ。二人でしばらく様子を見ているうちに、番犬はこちらにその獰猛な顔を向けてきた。その視線の先には、本来彼が守るべき主の娘の姿。
「メイヴ、僕の後ろに隠れて。」
「え?」
「あぶないから、急いで!」
「え、ええ。」

 その目を見て、セ=タンタは本能的に感じ取ったのだ。この番犬がメイヴを見る目つき、それは狩るべき「獲物」を見据える鋭い眼光。放っておけば、きっと次に襲われるのはメイヴだ。それも番兵たちが負わされている怪我程度では済まない、下手をすれば――

――そんなこと、させるものか!!

 先日少し顔を合わせただけ、きちんと会話したのは今日が初めてなのに、この少女をどうしても守りたかった。これがどういった類の感情なのか、今のセ=タンタはよくわかっていない。それでも、一つだけ断言出来ることがあった。

「メイヴは、僕が守るから……!」


−6−


 クランの親馬鹿自慢が始まって間も無く、談笑を交えながらの晩餐がその流れを止める。きっかけは些細なことだった。会話に殆ど参加せず一心不乱に料理をたいらげていたスカーサの手が、突如としてぴたりと止まったのだ。
「……い、いかがされた、魔女殿……」
「静かにせい。」
 何か機嫌でも損ねたのかと慌てて尋ねるアリルを制し、スカーサは無表情のままに料理を見つめている。それは料理に何か問題があるわけではなく、たまたま直前まで彼女の視線が料理に向けられていただけのこと。
「そこじゃな。」
 普段の悠然とした振る舞いからは想像も付かぬほどの俊敏な動作で、右手を振るうスカーサ。次の瞬間には、握られていたナイフがその手を離れていた。直後にガラスの砕け散る音。
「な、なにを!?」
 窓にナイフを投げつけるという、一見して不可解な行動に狼狽を隠せないアリル。スカーサはそんなことなどお構いなしに、ガラスが割れて開放状態になった窓に駆け寄っていた。
「避けられたか。腕が鈍ったかのぅ……。」
 続けてクランとアリルが窓に駆け寄って屋外を見下ろす。日が暮れて暗がりとなっていたため、はっきりとは確認出来なかったが、一つの人影が屋敷から走り去って行くのが見えた。
「賊じゃよ。窓に貼り付いておったようでな、鬱陶しいから叩き落としてやろうと思ったんじゃが。」
「ば、馬鹿な、ここは2階ですぞ!?」
「たわけ。鈎爪の一つもあれば容易な芸当じゃわい。」
 恐らくはかなり手馴れた斥候なのだろう。重要な議題は密室で片づけておいて正解だった。ここで発せられた情報といえば、今年のガリヴ演劇祭の見所ぐらいなものである。
「しかし、ここまでの侵入に成功したという事実は問題だな。」
 ただ一人、泰然自若として席を離れなかったコノールが口を開く。
「あんなところに貼り付いていながら、誰も気付かなかったということものぅ。」
 賊を仕留め損ねたことがよほど面白くなかったのか、どこかふてくされた表情でスカーサが続ける。
「……まさか!?」
 その指摘が表す事実に、クランも気づいたようだった。普段の落ち着いた振る舞いからは想像も付かぬほどの焦りを顔に浮かべ、弾き出されるように部屋を飛び出して行く。
「な、く、クラン殿はいったい?」
「まだわからんのか。ここまで容易に侵入し、庭に面した窓に発見されずに貼り付いていられる理由など、一つしかないだろう。」
 腹心の頭の回転の悪さに苛立っているのだろう、コノールはやや語気を荒げて答えた。その心情がわかったのか、同情混じりの呆れ顔でスカーサが説明を引き継ぐ。
「陽動じゃよ。あの賊は何らかの手をもって、警備の者どもをどこかしらに誘い出したのじゃろう。」
 そして、クランはその「何らかの手」の内容に心当たりがあるに違いない。それがこの屋敷全体に危険を及ぼすものだから、彼はなりふり構わず動いたのだ。
「どれ、儂も出向くかのぅ。なかなかに厄介かもしれぬ。」
 屋敷全体にとっての危機ならば、クランは間違いなく無茶をする。彼にとって、己が身の無事などは些末な事象に過ぎない。彼には自らの命を賭してでも、守らねばならないものがあるのだ。
「そなたがここを離れるというなら、我らも同行せねばならんな。これが真の陽動でないとも限らぬだろう。」
 確かにそれは一理あった。スカーサがこの会合に参加する大きな目的の一つは、先ほどのような賊から要人たちを守るためである。もちろん自身もダナーンやコナハトにとっての重要人物であるわけだが、武術の達人である彼女はルーと並んで例外的な存在と見られている。
「……刻限から考えるに、思わぬものが見られるかもしれぬわい。」
 場合によっては「今日の本来の目的」も果たせる可能性があるだろう。背後に続くコノールとアリルには目もくれず、スカーサは意気揚々と歩き出した。


 動物の動きは無計画に見えて、その実は非常に無駄が少ない。思考するという点においては人間に大きく劣る動物達だが、考える必要の無い行動に関しては、人間の想定を遥かに上回る鋭い動きを見せるのだ。
「……こいつ、やっぱり……。」
 野生の動物の中には、標的の群れを見て弱そうな個体から狙う種類のものが存在する。この狂犬はそれに加えて、何故か自らが襲うべき相手をはっきりと特定している。
「私が何したって言うのよぉ……」
 セ=タンタの背後でメイヴが忌々しげに呟いた。彼女にしてみれば全く身に覚えがないのだろう。この毒舌をどこででも振るっているのなら、人間に恨まれている可能性はあってもおかしくないのだが、今回の相手は犬である。自ら何者かに恨みの念を抱くなど、通常は考えられなかった。
「……あなた、何か失礼なこと考えてない?」
「う……そ、そんなことないよ。」
 こんな緊急時でも、メイヴの勘は鋭い。状況が状況だけにそれ以上の追及は無かったが、後が大変そうである。

――後……か。

 ここで自分がしっかりしなければ、その「後」を心穏やかに迎えられなくなってしまうかもしれない。セ=タンタは改めて模造槍を構え直し、目の前の敵に集中する。
 しばしの間、続く睨み合い。経過したは数十秒、しかし当人の感覚では永久とすら思える長い対峙の後、先に折れたのは本能の強い番犬の方だった。
「……来る!!」
「きゃっ……!?」
 自分が攻撃に対応するだけなら、相手の動き出しを声に出す必要は無い。しかし背後にいるメイヴに警戒を促すため、あえて叫んだのである。一瞬後に、番犬が鋭い跳躍を見せる。
「このっ!!」
 セ=タンタの受け流しからの横払いで、番犬が先程とは逆の方向へ弾き飛ばされていく。間髪入れずにセ=タンタは位置取りを変え、再び番犬からメイヴをかばう形になる。かなり強めに打撃を入れたはずだが、番犬は悲鳴一つ上げずに体勢を立て直し、体を低くして唸り声を上げ続けていた。
「……おかしいな……思い切りひっぱたいたのに。」
 樹海に生息する野生動物ならば、よほど腹を減らせていない限りは退散する――それほどの強烈な一撃だったはずだ。
 興奮状態で見境無く人を襲うようになっているだけなら、話は簡単なのだ。しかしこの異様な状態を見る限り、「普通ではない何か」がこの番犬の身に起きている。メイヴが標的として見られているというセ=タンタの見解も、間違いであってはくれないようだった。
「……メイヴ、僕の後ろにずっといられるように動ける?」
「むずかしい注文するわね……まったく。」
 はっきりとは答えなかったが、ここは「承諾」と判断する。この子は拒否するならはっきり「いや」と言うだろう。
「ごめんね。あの犬、何かおかしくて……。」
「それはシロートの私でも何となくわかるわ。あいつ、いつもはあんなに速く動かないし……」
 恐らくは、今の運動能力がこの番犬の「本気」なのだろう。普段から人間に怪我をさせると言っても、それはあくまでじゃれついているに過ぎないのだ。相手を「狩りの対象」として見た場合、動物は恐ろしいまでの変貌を遂げる。
「……また来るよ……っ!」
「わかってるわよっ!!」
 もっとも、そのようなことを発見したところで、相手が動きを止めてくれるわけでは無い。一発打ち据えて降参しないようなら、何度でも痛い目を見せてやるだけだ。言葉の通じない動物相手には、これしか対処法が無いのだから。
「このっ……」
 その動きは直線的で読みやすいが、とにかく速い。一瞬でも対処が遅れれば、その爪牙がセ=タンタの身に到達してしまうだろう。ゆえに、陣形の維持を自力で行うようメイヴに頼んだのである。後ろを気にしていたら、反応が遅れてしまいかねない。自分が動けなくなってしまえば、狂犬の牙がメイヴを容赦無く襲うだろう。
「ねぇ、おかしいわよ……なんであいつ、あんな動けるの……!?」
 先程自ら言っていたように、メイヴは戦闘に関しては全くの素人だ。そんな彼女でも、あの番犬の異常さは容易に理解できるようだった。

 セ=タンタは何も無計画に模造槍を振るっているわけでは無い。前足や後ろ足を狙ったり、内臓に衝撃が伝わる部位を突いたり、目くらましのために眼球の付近に打ち込んだりと、早々に動きを止めて戦いを放棄させるような策を講じていたのだ。
 だが、この狂いきってしまった猛犬には、そんな常識は通用しないらしい。足を引きずりながら、片目を腫らしながら、なお頭を低くして濁った唸り声を上げている。よく見れば、口腔から垂らしているのは唾液だけでは無いようだった。
「痛みとか……感じないのか……?」
 攻撃を打ち込んでいるセ=タンタ自身も、哀れな狂犬の痛ましい姿に目を逸らしたくなる気分だった。もう一発打てばさすがに降参して動きを止めるはず、そう自分に言い聞かせるのもそろそろ限界だった。だがこちらが反撃の手を止めれば、相手は容赦無く目的を果たそうとする。ならば、もはや打つ手は一つしか無い――

――でも、それは師匠のお許しが無いと……。

 こんなことなら、せめてスカーサと合流してから裏庭に来るべきだったか。そもそもに彼女だったら、この程度の状況は軽く打破しているはず。
「くそっ……どうすればいいんだ……!?」
 弱音を口にしたくは無かった。しかしこのままでは手詰まり。メイヴの体力も限界に近い。そんな絶望的状況で、困惑が言葉として発せられてしまったその時だった。

「たわけ、戒めと言っても時と場合を考えんかい。」

 一瞬、自分の願望が空耳となって聞こえたのかと思った。振り返ることはしなかったが、背後の少し離れた位置に、複数の気配が感じられた。
「スカーサ様……父様も……!!」
 代わりにメイヴが確認してくれた。どうやら屋敷の主に招かれていた大人たちが、異変に気付いて集まってきてくれたらしい。
「メイ!! 無事か、怪我はしてないかっ!?」
 普段の威風堂々としたクランからは想像も付かない、半分泣いているような悲痛な叫び声が聞こえた。クランが親馬鹿だと言われるのも納得である。
「セ=タンタ、狩りの許可を出す……その猛犬を仕留めてみせぃ。」
「……いいんですか……?」
 セ=タンタがスカーサより与えられている戒め、それは「喰わぬ獣を狩ることなかれ」というものだった。槍の達人であるスカーサから教えられた技を持ってすれば、動物の命を奪うことはさほど困難でもない。しかし無闇な狩りはただの虐殺に過ぎず、時として自然のバランスすら壊してしまう。ゆえに、食料確保の時以外には動物を殺すことは禁じられていた。
「喰らう以外にも、命の灯を落としてやらんといかん時があるのじゃ。」
「え……?」
「気付かぬか? そやつの声が、その心を発しておるぞ。」
 そういえば、先程から唸るだけで飛びかかってくる気配が無い。メイヴを守るのに必死で失念していたが、動物はその鳴き声や唸り声に強い感情が篭もっているときがあるのだ。

――こ、これって!?

 痛くないわけが無かった。苦しくないわけが無かった。

 人間は言葉を持つから、それで痛みや苦しみを表すことが出来る。でも犬は、唸ったり鳴くことでしかそれを表現出来ない。だから、よく耳を澄まさねばならなかったのだ。

 番犬の唸り声は、悲痛な呻き声だった。

「そやつは恐らく、薬と催眠の併用で心を壊されておる……己の意志で止まることが出来ぬのじゃろう。」
 スカーサの予測が正しいとしたら、何と残酷な仕打ちなのだろう。犬だって生きているのだ、戦うためだけの武器も同然にされるなど、どれだけの苦しみを伴うのか。
「じゃあ、止めるには……」
「もはや肉体を完全に止めるしかない。だから……狩ってやるのじゃ。」
 実際には、打ち据え続ければいつかは動くことが出来なくなるに違いない。しかし、それまでに蓄積する痛みや苦しみがどれほどのものになったのか。だからここで、解放してやらねばならないのだ。しかし――
「こんな……こんなことって……!!」
 命を奪うしか、救う方法が無い。いったい誰が、どんな目的で、あの番犬にそんな非道な仕打ちを施したのか。

 理不尽さと行き所の無い怒りに気が狂いそうだった。理屈ではそうするしかないとわかっていても、どうしても納得できない。然るべき構えを取ることが出来ない。

「……この阿呆弟子が!! ならばその娘の命を差し出すのかっ!?」

 スカーサの叱咤で、セ=タンタの全身に衝撃が走る。そう、いま自分が為すべきことを忘れていた。自分が最初に決意したことは何だったのか、それを思い出せ。
「……メイヴを……守る!!」
 一瞬、棒立ちの状態になっていた体に力を込め、突進に備えて腰を落とす。
「そう、狩りとは自らを生かすための手段……相手を殺すことが主たる目的では無いのじゃ。」
「はい!!」
 大きな声で返事をすると同時に、セ=タンタは模造槍をくるりと180度回転させる。今まで手元に近くなっていた穂先は、鋭利とはいかないまでも、かなり細く削られていた。脇から後ろへ引くように構え、逆の手を穂先に軽く添える。先程までは一度として見せなかった、「突く」ための構えである。
「ごめんね……メイヴを守るためには、君を狩らないといけない。」
 さすがに体に限界が来ているのか、番犬は今まで以上にじっくりと、跳びかかるタイミングを見計らっているようだった。恐らくその「最後の一撃」は、今までで最も鋭い突進となるに違いない。

 スカーサが近くまで来てくれた今となっては、メイヴが危険に晒される可能性は無きに等しかった。だが、ここまで対峙してきた自分が手を下す――それがせめて果たさねばならぬ義だと、セ=タンタは感じていた。

「ねぇメイヴ、お願いがあるんだけど。」
「……何よ、こんなときに。」
「目、つぶっててくれないかな……」
 いくら馬鹿だ何だと非難していても、彼女にとっては飼い犬――家族なのだ。その命が失われる瞬間、セ=タンタの手によって奪われる瞬間を、見せたくはなかった。しかし――
「いやよ。」
「え?」
 嫌なものは嫌だとはっきり言うメイヴは、ここでその拒否権を迷い無く行使した。
「あなたは私を守るためにあいつを狩るんでしょ……だったら、見とどけなきゃダメなのよ。」
 自分だって苦しいはずなのに、つらいはずなのに。
「あなた一人に背負わせないから……ちゃんと、楽にしてあげて。」
 それでも彼女は、セ=タンタの心を気遣ってくれているのだ。そこにいるのは、ヒステリックに現況へ悪態をつくワガママなお嬢様では無く、世界にその名を轟かせる鍛冶師クランの一人娘――それにふさわしい強い心を有した高潔な令嬢だった。
「わかったよ……ごめん。」
「……あやまらなくてもいいわ。」
「そっか……うん、ありがとう。」
 まるでセ=タンタの迷いが吹っ切れるのを待っていてくれたかのようだった。メイヴとの会話が切れたその瞬間、番犬がその身を深く沈める。
「……来る……っ!」
 敵の体が、その牙が、あたかも石弓から放たれた矢の如く、セ=タンタの喉笛に向けて迫ってきた。セ=タンタの集中力が極限まで高められ、その主観的時間は流れを止めて行く。

 動く的も、実際には止まっている的と変わらない。
 大事なのは、狙った位置を貫く正確さ。

 今までに一度として貫けなかった、金属鎧の継ぎ目。
 「突進」という動きを加味すれば、動かぬ継ぎ目よりも狙う的は遙かに小さい。

 だが自分でも不思議なほどに、セ=タンタの視覚はその「標的」を正確に捉えていた。
 何も考えずとも、自然とその「的」に模造槍の穂先が吸い込まれていく。

 スカーサによって課せられた反復練習、その成果が結実した瞬間だった。

 突進の勢いと、突き出された槍に込められた力。その相乗効果で、矢尻を持たぬはずの模造槍が、番犬の眉間に突き立てられていた。あまりにも一瞬の出来事で、その場にいた者の殆どは何が起きたのかも理解出来なかっただろう。気付けばセ=タンタは構えを解いており、その目前には力なく番犬が横たわっていた。その身はぴくりとも動かない。
「……すげぇよ、あの凶暴犬を模造槍で仕留めちまうなんて!!」
「さすがは影の魔女の弟子だ!!」
 歓声がどこからと無く発せられ、徐々に周囲に広がっていく。あまりにも状況が緊迫していたためにすっかり忘れていたが、この場には番犬に重傷を負わされた番兵たちが残っていたのだ。皆、体を引きずりつつ安全な距離から二者の戦いを見守っていたらしい。
「頑張ったのぅ……あの難しい状況で、上々の出来じゃったぞい。」
 いつのまにか傍らに来ていたスカーサが、珍しく賞賛の言葉をかけてくれた。
「……はい……ありがとうございます。」
 しかし、どうしても気が晴れない。この手で「狩る」決意、それはまやかしでは無かった。それでもやはり――
「メイ!! 無事で、無事でよかったぞぉ……!!」
「父様、痛いってば……!」
 少し離れたところで、クランがメイヴを強く抱きしめながら涙を浮かべている。親馬鹿と揶揄されることもあるが、それだけ本当にメイヴのことが大切なのだろう。
「クラン様……」
 だからきっと、この番犬のことも大切にしていたはずだ。メイヴほどではないにしても、愛情を持って育てられたから、これだけ大きく強く育つことが出来たのだろう。
「……セ=タンタ君、そんな顔をしないでくれ。」
 自分では平静を装っているつもりだったが、どうやらかなり悲痛な表情を浮かべているようだ。
「でも僕は、クラン様の大切な番犬を……」
「その代わり、大切な娘を守ってくれた。」
 確かにクランの言うとおり、メイヴを守るためには仕方が無かった。
「そして、この子のことも救ってくれた。見なさい、これがあれだけ苦しんでいた者の顔かね……?」
 動かなくなった番犬は、まるで眠っているように安らかな表情をしていた。額の悲痛な傷さえ無ければ、いつ起き出してもおかしくはないと言っても差し支えが無さそうなほどに。
「そう……なんでしょうか……。」
 それでも、失われたものは戻らない。結果的に、セ=タンタはクランの番犬をその手で葬り去ってしまったのだ。どう詫びれば良いのか――

「お主が代わりに、番犬になれば良いんじゃよ。」

 そんなセ=タンタの胸中を察したかのように、スカーサが突然口を開いた。
「え……?」
 一瞬、何を言われているのかがわからなかった。見ればメイヴも唖然としている様子だったが、クランだけはその意味を理解しているようだった。
「クラン殿の元で番兵として働けと言うておるのじゃ、住み込みでな。」
 そう言われて、何故かセ=タンタの視線はメイヴの姿を追った。当のメイヴも、何故なのかセ=タンタの方に顔を向けていた。二人は目を合わせた瞬間にスカーサの言葉の意味を、ほぼ同時に理解する。

「えええーーーっ!?」

 それゆえに、叫び声が重なってしまったのであった。


−7−


 止まった的も馬鹿には出来ない――スカーサの口癖は訓練の度に脳裏に蘇る。馬鹿にしているわけではないが、動いている的でもっと厳しい課題を切り抜けてしまった経験があると、不思議とプレッシャーも軽くなってくる。
「……はっ!」
 余計な力はいらない。合図程度の軽い掛け声と共に、狙った的へ模造槍の穂先を突き出す。軽い抵抗の直後に、込められた力が前方に突き抜けていく。
「すっかり安定しおったのぅ。」
 金属鎧の継ぎ目を抜いて、藁束に深々と突き刺さった模造槍。その持ち手に当たる部分を扇で軽くはたきながら、スカーサは嘆息してみせた。
「ありがとうございます。」
 先日の狂犬退治の一幕が良い荒療治になったとは言え、やはり毎日の修練が物を言っているのは間違いない。
「やっと基礎が終わりですね。」
 これが最初の最初に覚えなければならないこと、セ=タンタは師からそう言われて育ってきた。もちろん他に基本的な型の訓練なども行うが、この「継ぎ目抜き」を覚えるまでは、本格的な槍の訓練は行わない。そういう約束だった。結局、ここまで来るのに三年かかってしまったわけだが。
「あぁ、そのことじゃがの。」
「はい。」
「それこそが儂が主に教えてやれる、ただ一つの技なのじゃ。」
「え……?」

 槍という武器はその性質ゆえ、使い手によって様々な「癖」が出る。その「癖」は基本的にその使い手の体格や性格から生じるものであり、他者の「癖」を「流儀」として身に付けてしまった場合、大きな枷となる場合がある。そうスカーサは語った。そして、それらの「個人差」を差し引いてなお、数少ない共通の高等技術として存在しているのが――

「継ぎ目抜き……なんだ。」
「その通りじゃ。それを極めねば、槍の真価は発揮できぬ。」
 スカーサによると、ルーはこの技を完全に極めているらしい。いかなる状況、いかなる防具に対しても、常にその槍は確実に相手の身を貫くと言う。
「お主は確かにあやつの娘じゃな。普通はこの技の修練を始めるまでに、十年はかかると言われておるのにのぅ。」
「そ、そうなんですか?」
「その無自覚さがそっくりじゃい……まったく。」
 苦笑と共に頭を振りながら、一度背中を向けるスカーサ。しかしすぐにこちらへ向き直ると、その表情から茶化した雰囲気は消えていた。
「よくぞ間に合わせてくれた……お主が巣立つまでに教えきれて良かったわい。」
 普段は殆ど見せないような優しい微笑みを浮かべて、スカーサがセ=タンタの頭を撫でる。その暖かい感触に、抑えていたものが急激にこみ上げてきてしまう。
「……し、師匠ぉ……」
「あ、阿呆! 泣くやつがおるかっ!!」
「す、すいません、でもぉ……」
 こうやって優しい言葉をかけてもらうのも、頭を撫でてもらうのも、今日を過ぎるまで。明日からは、会う機会自体が減ってしまうのだから。
「……本当はな、儂も少し寂しいわい。じゃがの、お主は大人になるまでに、大勢の人の中で生活しておいた方が良いのじゃよ。」
「そうなんです……か……?」
「母親みたいな人間嫌いにならんためにものぅ。」
 そう言っていつものように豪快に笑ってみせるスカーサ。やはり大人は精神的に強いのだろう、別れが迫った湿っぽさを吹き飛ばすために、冗談の一つも言えてしまうらしい。この状況で、いつまでもぐずぐずしていては恥ずかしい。
「何かあれば気楽に帰ってくれば良いんじゃよ。そう頻繁に来られても困るがのぅ。」
「……はいっ!!」
 そうだ、クランの屋敷で住み込みで働くとは言え、ここが自分の生家であることに変わりはないのだ。むしろ湿っぽくなる方がおかしい。
「それじゃ、準備してきます!!」
 昨晩のうちに殆どまとめたとは言え、忘れ物があってもカッコが付かない。出発まで時間があるからこそ、再度入念にチェックしておきたかった。

 あのクランの屋敷での一件から、五日が経っていた。スカーサがまるで思い付きのように言ったセ=タンタ番犬宣言だったが、実はかなり前から計画されていたことであった。以前よりスカーサはセ=タンタを町で生活させたいと思っていたのだ。その手段として、自らの友人であるクランの屋敷で住み込みで働かせることが出来ないかと、彼に相談していたのだと言う。
 もっとも、クランの当初の予定では給仕見習いとして迎えるはずだったらしいが、あの日のスカーサの機転で、得意分野が活かせる職に収まれたのであった。

 衣類など生活必需品の殆どはクランが用意してくれているとのことだったので、セ=タンタの荷物はお気に入りの服と母からもらったアクセサリ類だけだった。
「槍はあっちで支給されるものを使うんじゃ。新たな得物になれるのもまた修行じゃて。」
「はい。」
 こちらで使っていた模造槍は、とりあえず保管しておいてくれるらしい。もう使うことも無いかもしれないが、ずっと使い込んでいただけに愛着はあったので、捨てられることにならなくてホッとしたのが正直なところだった。
「あの寄合の御者のことじゃ、そろそろ出れば早めに合流出来るじゃろう。」
「そうですね……」
 あの日、セ=タンタを運命の屋敷へ導いた特急馬車。それが今日も彼女を運んでくれる。
「……あの。」
「む……なんじゃ?」
 これで出発なら、言っておかねばならないことがある。難しくてなかなか言葉がまとまらないけど、メモなどは見ないで自分で考えて言いたかった。
「師匠は、僕の……えっと……」
 どう言おう。良い表現は何か無いか、わかりやすくて、正確な――そうだ、あった。

「……師匠は僕の、もう一人の母さんです。」

「……ふむ。」
 いつもなら軽口で返してくるスカーサが、黙って聞いてくれている。頑張らないと、頑張って言い切らないと。
「あの、師匠のこと母さんって呼ぶと母さんが来たときにわからなくなるから、いつもは師匠って……でも僕、師匠のことも母さんだと思ってます。だから、えっと、あの……」
 やはりまとまらない。こういうときは無理をしないに限る。
「今までありがとうございました! 行ってきます、母さん!!」
 結局何が言いたいのか自分でもわからなかったので、慌てて頭を下げて外に飛び出すセ=タンタ。岩場を軽やかに飛び移りながら、とりあえず次に戻ってきた時に言うべき謝罪の言葉を考え始めていた。せっかくの門出だというのに、何だかえらくバタバタしてしまったから――


 正直なところ、慌しく飛び出していってくれて助かった。最後の言葉を言われた瞬間、年甲斐もなく思考が麻痺してしまっていたのだ。ようやく脳味噌がお目覚めになった時には、庵には自分の姿しか残っていなかった。
「行って……しまったのぅ……」
 それは別に、昔と同じ状態に戻るだけ。四年という短い期間だったが、親子遊びが出来た。それだけで十分幸せではないか。
「隠者は、本来孤独なものじゃからな。」

「独り言が多いじゃない、柄にも無く。」

 姿が残ったは自分だけだったが、気配がもう一つあることには気付いていた。ただ、こいつは出来る限り自発的にしか姿を現そうとはしない。だからその気になるのを待っていたのだが、珍しく勿体ぶらずに出てきたようだ。
「……ルー、お主から何も言わんで良かったのか? 仮にもお主の娘の門出じゃろうに。」
 セ=タンタの「本当の母親」、ルー・ドルドナ。滅多に娘の前に姿を見せない彼女だが、さすがに娘の巣立ちは見守りたかったのだろう。もっとも今回も、姿自体を見せないことに変わりはなかったのだが。
「私よりもあなたのが、より『母親』してるしね。お任せしちゃったわ。」
「ふん……」
 何だろう、何でも無い会話なのに、顔を逸らさねばならぬ事情が出来てしまった。そんなこっちの状態を知ってか知らずか、ルーはいきなりその身を寄せてくる。
「……ごめんね、お母さんの一番つらいところ、任せちゃったよね。」
 その懐に、力強く引き寄せられた。珍しく気を使っているのか、こちらの顔は見ないでいてくれたようだった。
「……気にせんでええわ……その分……おいしいところも……うぅっ……」
 悪態の一つも付けなくなるとは、我ながら情けない。だが残念なことに、無意識から湧き出す感情に逆らうのもなかなか難しい。癪ではあったが、引き寄せられるままに顔をうずめてみた。これで、どんな顔をしても誰にも見られない。肩の震えと呼吸の乱れ、そして鼻をすする音は誤魔化せないけど、黙殺してくれることを祈るのみだった。

 隠者スカーサ――実年齢にそぐわぬ幼い容姿が、彼女の特異性の一つ。
 しかしその「実年齢」も、本当はその口調ほどには高くない。

 「娘」との別れを、本心から軽口を叩いて誤魔化せるほどには、老成していなかったのだ。


「これから、よろしくお願いいたしますっ!!」
「うん、頼りにさせてもらうよ。」
 今回は特に何のトラブルも無く、クランの元へと辿り着くことが出来た。初めが肝心とも言うので、着任と居候開始の挨拶をきっちりと済ませる。
「さすがに兵舎は男所帯なんでね、君の部屋は給仕の寮の方に用意しておいたよ。」
「え? あ、えーと、はい、ありがとうございます。」
 男所帯で何の問題があるのだろうか。セ=タンタは番兵として働くのであるし、兵舎の方で生活しても良いのではないか。
「……ふむ。なるほど、スカーサ殿が心配するわけだ。」
「まったくだわ……ホント、自分の可愛さに自覚が無いのよね。」
 クランの言葉に相槌を打つタイミングで部屋のドアを開いたのは、すっかりいつも通りの毒舌に戻ったメイヴだった。
「メイ、ノックぐらいしなさい。」
「しましたわよ。そいつの馬鹿大きい挨拶で聞こえなかったかもしれないけど、ね……」
「む、それは悪かった。」
 それにしてはドアを開けるまでに間があったような感じがする。まるでタイミングを計っていたかのような――
「また何か考えてるわね?」
「い、いや、そんなこと!?」
「……まぁいいわ。父様、私がこの子を給仕寮まで連れて行っても良い?」
 このとんとん拍子ぶりを見ていると、やはりタイミングを計っていたように思えるのだが。
「そうだな、子供は子供同士で動いた方が気も楽だろうし、お願いするよ。」
「はい。ほら行くわよ、ぼさっとしないの!」
「え、ちょっとまって、し、失礼します!!」
 いくらせかされているとは言え、挨拶を疎かにしては良くないだろう。深々とクランにお辞儀をしてから、セ=タンタは荷物を抱えて慌てて部屋を飛び出す。実際には、メイヴは部屋を出たところでちゃんと待っててくれたのだが。
「まったく……あの時のかっこいいあんたと、今の大ボケなあんたと、同じ人間とは思えないわ。」
 同じ屋根の下で暮らすようになるからか、前以上に毒舌に磨きがかかってきているように思える。いつの間にやら、呼び方からも丁寧さが減少しているし。
「僕は僕だよ……。」
「そんなのわかってるわよ……まぁ大ボケは大ボケで可愛いんだけど……」
「え?」
「何でも無いわよ!!」
 何か口を滑らせたようにも聞こえたのだが、勢いで誤魔化されてしまった。不思議と嫌な感じもしなかったので、あまり詮索はしないことにする。

 それで変な空気が出来上がってしまったのか、しばらくお互いに口を聞くことが無くなってしまう。気まずい沈黙がしばらく続いた後、先に動いたのはやはりメイヴの方だった。

「……ねぇ。」
「なに?」
「クゥって呼ぶから。」
「ふえっ!?」
 初めは何を言われているのか理解出来なかった。あまりにも突然な申し入れだ。
「あだ名よあだ名。あんたの名前、いまいち可愛くないんだもの。」
「そうかなぁ……」
「だから、今日からあなたはクゥ・クラン……どう?」

 それはアイアランの古い言葉で「クランの猛犬」を意味するのだと言う。あの番犬の代わりとしてこの館で働くことになったセ=タンタには、あまりにもぴったりのあだ名かもしれない。

「うん、わかったよメイヴ。」
「……ホントに大ボケねあんた。あたしだけ普通に呼ばれたらおかしいでしょ。」
「え、そうかな?」
 ルーとスカーサのやり取りでは比較的よくある出来事なのだが。もっともあれは、ルーが勝手なあだ名を考えてスカーサがツッコむというパターンだったか。
「そうなの!! メイって呼んでよ、ね!?」
 何故かすごい剣幕だったので、この場は頷くだけで切り抜ける。いきなりあだ名に変えるというのも難しいので、少し心の準備が必要だ。そう、ほんの数秒で良い。
「この館、案内するところ多いんだから、こんなところで油売ってるわけには行かないの。」
 どうやらまっすぐ給仕寮には連れて行ってくれないらしい。もっとも館の構造は遠くないうちに覚えなくてはいけないことなので、丁度良いとも言えるのだが。言葉自体は悪態ばかりのメイヴだったが、少し先行しているその足取りは軽く、声色は聞くからに非常に上機嫌だった。

 つられて、セ=タンタの気分も自然と高揚してくる。ここでの生活は、きっと楽しいものになるに違いない。


「ほら……さっさと行くわよ、クゥ!」
「うん、案内よろしくね、メイ。」


 今度スカーサの元に「里帰り」したら、いろいろと土産話が出来そうだった。




To be continued...



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