〜1:赤い再会〜
それは「懐かしい気配」だった。
赤色のマフラーに隠された口元が微妙に歪み、レンズの厚い眼鏡の奥で切れ長の瞳が細められる。もちろん傍から見れば何の変化も見られないのだろうが、そのような変化を生じた本人は当然ながらそれを認識している。自分がこのような感情を覚えるのはどれぐらいぶりのことだろうか。どうやらまだ人の心が残っていたらしい。困ったものだ。
膝の上で眠る銀髪の幼子は、相変わらず静かに寝息を立てている。こうなってしまえば無防備だから、自分が目を離すわけにもいかない。つまりこのような珍客が来訪したところで、そうそう激しい動きは取れないわけである。もちろん「壊す必要」がある相手ならそんなことは言っていられないが。
「……お久しぶり、ですねぇ……」
こちらに敵意を向けているとしたらこの世に、否、常世も含めてこれほどに危険な存在もあるまい。だが、幸いにして「彼女」はご機嫌のようだった。
「元気にやってるようじゃないか。相変わらずロクな匂いはしないようだがね?」
それは仕方が無い。つい今しがた、浅はかで哀れな狩人たちが「赤い波」に飲まれたばかりなのである。
「俺がやるよりはマシな方だと思いますけどねぇ。」
「あんたが殺った後だったら、胸くそ悪くなってもう帰ってるさ。」
「それもそうですねぇ……くく……」
相手はちっとも面白くなさそうだが、こちらとしてはなかなか楽しい。やはり壊したくならない相手というのは貴重だ。マトモなニンゲンを気取れるから。
「そうやって面白くもないことを面白がるあたりは、全く変わってないか。」
視界の端で、白いラインの入った紺色のセーラーカラーが軽く翻った。どうやら呆れて頭を振っているらしい。
「そういう性分ですんでねぇ。」
一つのことが楽しくなると、目の前に広がる全ての事象が面白くなってくる。未だに眠り続ける呪われた稚児の頭を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らしていた。
「ふん、随分とその坊やにご執心のようじゃぁないか。」
責めると言うよりは冷やかす感じの口調。
「そりゃあ、仮にも『俺が選んだモノ』ですからねぇ。」
何が言いたいかはおぼろげに予測できたが、あえて何もわからないフリをする。
「ならあれか、あいつのことはもうあれってわけかい。」
あれあれと繰り返すのは歳をとった証拠だ、と漏らしそうになったが、すんでのところで口を噤む。迂闊なことを言ったら八つ裂きにされかねない。
「そんなことはないんですけどねぇ……まぁ今はこっちのが楽しいんでねぇ。」
柔らかい頬をつついてみると、うーんと唸って体を縮ませる。が、やはり目覚める気配はない。
「はっきりしない奴だね……まったく。」
そんなことを言われても困る。はっきりさせない方が面白いのだから仕方無いだろうに。
「好きならコマせ、嫌いならコロせって昔から言うだろうに。」
あまりにも極論。なるほど、気分屋なこの人の周りに浮いた話と血生臭い話が絶えなかったわけである。
「その割に俺のことはどうもしませんねぇ?」
「そりゃそうさ、あたしだって分別ぐらいはある。相手が肉親じゃ……」
「好きだけどコマせない?」
「いぃや、嫌いだけどコロせない。」
一刀両断。まぁ予想はしていたが。
「てかね、あんたたちがケリを付けるまではどうにもせんさな。そうしたのは他でもないあたしだしね。」
まったくもってその通りだ。むしろコロしてやりたいのはこっちの方だが、もう少し死なずに過ごしたいので余計な邪念は捨てておく。
「殺すも口説くも勝手だがね、あまり逃げてばかりいるようならテコ入れぐらいはするよ。あたしの持ち時間だって無限じゃあないんだ。」
そんな姿で現れておいてよく言うものだ。どれだけの永い時を、その変わらぬ器をもって経てきたのやら。
「まぁ……覚えておきましょうかねぇ……」
抑えた情動が尋常でない「あいつ」ならともかく、自分ではとてもこの人にはかなわない。黙って受け入れておくことにしよう。
「そんな玩具に惹かれたのはいいが……」
そう、黙って受け入れておくつもりだったのに
――
「……きちんと責任持って、壊せるんだろうね?」
視界の隅に捉えているだけだから、彼女の顔が見えているわけではなかった。だが、声色から、何より剥き出しの愉快そうな悪意から、その表情は容易に想像できた。
この女、笑っている。
嘲るように。愉快そうに。忌々しげに。愛しげに。
そんな思考が世界を満たす前に、体が勝手に動いていた。常に手放さない商売道具
――3本のギターピック
――が空を切り裂き、半袖のセーラー服に3つの風穴を開ける。
「相変わらず手癖の悪い小僧だね。」
そう、手応えとしては開けたはずだった。しかし既に、そこに彼女の実体は存在していなかった。どこにいるのか。完全に視界から消えていて、それでいて気配を間近に感じる。つまりそれは
――
「あと猫背も治ってないか。」
頭上、正確には背面上方からの声が続く。確実に生命活動の停止を狙った攻撃を受けたにも関わらず、まったく動じている様子はない。
「すいませんねぇ、ついつい反射的に。」
「なぁにが反射的さな。殺すつもりで投げたんだろうに。」
ご名答。そしてこれで終わりと思ってるなら老いた証拠だ。こちらはまだまだ頭から血が下がりきっていない。
軽く両手を振り上げるのに合わせ、見えざる糸が背後の存在を中心に縒り集まる。
複数の螺旋が絡まり合い、その直径を限り無くゼロに近付けていく。
「さすがのあなたも、少し衰えましたかねぇ?」
何と愉悦に満ちた声なのだろう。これは本当に自分の声なのか。
指を振り下ろすと、乾いた単音が周囲に響き渡る。
それを合図に漆黒の三つ編みが、雪の如き白肌が、涼しげな半袖のセーラー服が、彼女を構成する全ての物質が、複数の平たいパーツに分かれて崩れ落ちる。さながらバランスを失った達磨落としのように。
「ふふ……はははははっ!!」
今度こそ上手く行ったのか。上手く逝かせてやれたのか。
彼女のかけらが、風に吹かれて舞い上がる。
白く平たい、かけらが
――
一瞬、ほんの一瞬だが、驚愕に目を見開いてしまった。もっとも、その表情が自身への嘲笑に変わるのに数秒まで要しなかったのだが。
「愚かだねぇ……本当に愚かだよねぇ……ククク……」
舞い上がった複数の紙切れには全て、まるでこちらを馬鹿にするかのように、珍妙な落書きがされていた。
人の顔を平仮名で表す「へのへのもへじ」。その「の」の字が眼鏡に描き変えられた、何ともコミカルな絵柄だ。これは未だ余裕を崩さぬ彼女の顔なのか、それとも糠喜びを自嘲する自分の顔なのか。
近くを舞っているそのうちの一つを手にとって、それとなく語りかけてみる。
「まだまだ俺程度の小僧っ子には、殺られてくれないってことですかねぇ……?」
もちろん、へのへのもへじは何も答えてはくれなかった。
〜1.5:黒い来賓〜
一本桜というのは得てして目立つ存在でありながら、不思議と人がよりつかない。まさか根の下に亡骸が眠っているなんて迷信を恐れてるわけでもないのだろうが、その神々しさに本能的な畏れを抱くという部分はあるのかもしれない。だとしたら、頻繁に易々と足を運ぶ自分は霊感が相当鈍いか罰当たりということになるのか。
春には盛大に桜色を散りばめていた枝先も、この季節ではすっかり緑に染められている。植物に造詣が深くなければ、見ただけで何の樹であるかを当てるのも難しいか。
――あら。
きっと誰もいないだろうと確信を持ってここに足を運んだサユリだったが、そこにはよく見知った格好をした滅多に会えない珍客がいた。視線を高く上げているようだが、樹木を見ているというよりはそこに関わりのある事象に思いを馳せているようでもあった。
漆黒の外套と深く巻かれたマフラー、長袖のセーラー服に膝下丈のスカート。はっきり言って夏場に適した服装ではない。もっともいつも冬物のジャージを愛用してるサユリが人のことを言えた立場ではないが。
せっかく思惟に耽っているところを邪魔するのも悪いと思ったが、それよりも声をかけたい衝動が勝っていた。
「久しぶりだね。」
気配には気付いていたのか、その声に驚くことなく少女は振り返った。少し大きめの眼鏡の奥に、気の強そうな大きな上がり目。伸びるままになってる前髪が額を隠していて、それが影を作り出しているため、ますます攻撃的な印象を与えている。
「こんなところで会えるなんて思わなかったよ。」
笑顔で語りかけるサユリに対して、少女は大して面白くもなさそうにため息を吐く。
「……こんなところで会うハメになるなんて思いませんでした。」
しょっぱなから辛辣。どうやら少しも丸くなってはいないらしい。結構なことだ。
「中島君ならここにはいないよ。」
「みたいですね……行き先知ってますか?」
「私が食べちゃった。」
驚くでもなく、笑うでもなく、無感動に無反応で数秒沈黙した後、再びため息。
「サユリの場合、冗談になってません。」
「ああ、うん、それは言えてる。」
あはは、と笑ったのはサユリだけ。対する少女の表情に変化はない。とは言え、別に軽蔑やら嫌悪の感情があるわけでもないようで、ただ単に何とも思わないだけらしい。
「彼、神出鬼没だからね。どこにいるかは誰にもわからないよ。」
これが正直な解答。ただ1日の間に同じ場所には滅多に来ない人なので、ここにいないのは確信していた。
「そうですか……困るでしょうね。」
奇妙な言い方である。困りますね、ではないらしい。
「困るって……中島君が?」
「兄様に伝言があって来たんです。別にぶっつけでも構わないんですが……」
ちょっと歯切れが悪い。もっともこの兄妹の歯切れの悪さは今に始まったことじゃないのだけれど。
「兄様はあの人が苦手みたいなので。」
「あ〜……うん、ちょっとお話見えてきた。」
予告に来たということか。なかなか兄思いのよく出来た妹ではないか。
「それだけのためにわざわざ遠くから来たんだ。冬ちゃんはえらいね。」
「いえ、半分はあの人からの伝言ですから……それに久々に兄様と会いたかったので。」
中島君によるとこの子は昔はかなりのお兄ちゃんっ子だったらしい。まぁ親御さんがあれでは他に甘える相手もいないのだろうが。今はすっかり自立できてるみたいだが、やはり会えるのは嬉しいのだろう、兄のことが口に出るたびに表情が少しだけど綻んでいる。たぶん本人は無自覚だろうが。
本当、この子は可愛い。
悪戯心が活動を始め出した。サユリの瞳にそれまでと違う色が宿る。
「ねぇ冬ちゃん……お兄ちゃんところに連れて行ってあげようか?」
手の中には紙飛行機。いま折ったわけでもない、用意してきたわけでもない、サユリが「ある」と思えば、この飛行機は「ある」のだ。
「……兄様に?」
冬ちゃんは訝しげな表情を浮かべている。でも「兄様」に関わることだから、ガードが甘い。
「そう……いっしょに行こう……?」
その視線の先に紙飛行機を浮かべるのと、冬ちゃんの目つきがそれまで以上に鋭くなったのはほぼ同時。
次の瞬間には紙飛行機は無数の紙吹雪と化し、冬ちゃんの目の前にあるサユリの姿を幾度も風圧の一閃が通過する。鮮血の代わりに光が漏れ出し、サユリの形をした偽りの実像が霞むように消えていく。
直前まで幾度も空を切り裂いたマフラーを何事もなかったかのように巻き直し、冬ちゃんはため息を吐きながらこちらへ振り返る。
「サユリが用心深くて良かったです。私、兄様と違って寸止めはできないので。」
「相手は選んでるからね。来てくれたら幸運ぐらいにしか思ってなかったし。」
もっとも、あれぐらいですんなり「連れて行かれる」ような娘だったら、始めから「連れて行こう」などとは考えない。
「私ね、冬ちゃんのことが気になるんだ。」
中島君は可哀想で、保護欲をかきたてられるけど、この子はまた違う。
むしろ逆だ。
支配欲をこんなに刺激されるなんて
――
当の冬ちゃんは相変わらず、少しの間をおいてため息。あれ、でも少し間が長かったような。ため息もいつもより深くって、まるで深呼吸の吐く方みたいに長く吐いていて。
「……好きと言われましても、ね。」
だいたい声のトーンも変だ。そもそもに何故こちらに視線を合わせないのか。いやそもそもに今何て言った。おかしいというか、これは間違いなく墓穴を掘ってくれている。
「まぁ私も優しくて温和なお姉さんは好きですけどね、サユリみたいな兄様や私に危害を加えるようなタイプは願い下げです。だいたいあれだけ兄様にちょっかい出しておいて何で今更私にそんなこと言うんですか……まったく、何を考えてるのか見当が
――」
「ねぇ冬ちゃん。」
話を遮ったサユリの笑みが勝者のそれであることに気付いたのか、言葉を止めてようやくこちらに向き直った冬ちゃんの額から、冷や汗が一筋流れ落ちていた。
「な、何ですか?」
「私、『好き』なんて言わなかったんだけど。」
「……あっ……え?」
まず自分の失策に気付いて驚愕、そして硬直。ガードが外れると歳相応にころころと表情が変わってこれまた可愛い。まずい、癖になるかもしれない。
「気になる、って悪い意味でも使うじゃない?」
「使い……ますね……ええ。」
ああ、うなだれている、気丈に振舞ってるけどうなだれている。何でこんなに可愛いのこの子は。
――この感じは……初めてかも?
今まで「連れて行きたい」と思った相手は数知れない(「連れて行った」相手も数知れない)けれど、「連れて行きたくなくなってきた」のは初めてだ。この子は現世にいた方がたぶん可愛い。現世で自分と一緒にいてくれた方が
――
――あれ? これってもしかして
すっかり隙だらけになった冬ちゃんの後ろに回りこむと、えいやっと背中から抱きついてみる。うん、柔らかい。
「………な……にを……?」
さすがと言ったところか、これだけ不意打ちでも悲鳴は上げなかった。とは言え、だいぶ度肝を抜かれているようだが。
「冗談よ。私、冬ちゃんのそういう可愛いところが大好きだもん。」
あ、いま冬ちゃんの頭から煙が出たかも。
「……私は……サユリのそういうところが嫌いです。」
「じゃあこういうところ以外は好き?」
「え、いえ……あ……えっと………」
適当にはぐらかしてしまえばいいのに、冬ちゃんは何か答えを探しているようだった。羽交い絞めにされながらも、真剣な顔つきで(ちょっとほっぺたが赤いけど)考え込んでいる。少しの沈黙の後で、ゆっくりと口を開く。
「……サユリは……兄様のことをわかってくれるから。」
それは、兄を深く慕う妹ゆえに出た言葉だったのだろう。
「兄様はあんな性格であんな格好だから、みんなすぐ誤解します……ナカジは強い……ナカジは賢い……ナカジなら大丈夫……でも」
わかっていても言葉に出したくないのか、冬ちゃんはそこで口を噤んだ。
「サユリはわかってくれてるから……言わなくていいですよね?」
「うん。」
中島君は、弱い。
中島君は、愚直だ。
そして中島君は、脆くて危なっかしい。
本人もきっと気付いている。だからあんな歌を書けるのだ。弱い者は強い者を客体として見るから。観察できるから。
このまま押し倒して押し切っちゃうのも手かと思ったけど、何か劣情が吹っ飛んでしまった。わしわしと頭を撫でてあげても、冬ちゃんは嫌がって逃げたりしなかった。
冬ちゃんが、サユリが、お兄さんが、タロー君が、中島君をみんなが守っている。
でも冬ちゃんは、兄様を守るために、支えるために、一人で戦っている。
「冬ちゃんは……お兄ちゃん孝行だね……」
少し強く、抱きしめてあげる。いろいろ話して気が楽になっているのか、冬ちゃんは自然にこちらに体重を預けてきている。ずっとこうしていたいが、あいにくそうも行かない映像がサユリの目に飛び込んできた。同じ方向を向いている冬ちゃんも気付いただろう。
まさに噂をすれば影だ。珍しく同じ場所に戻ってきたらしい。角帽に学ランにマフラーに眼鏡という、どこからどう見ても冬ちゃんの兄ですと言わんばかりの服装。
こちらに近づいてきた中島君は、ただでも普段会わないお客がいるというのに、異色の組み合わせがべったりという絵面に直面して、早くも眼鏡をずり落としそうになっていた。
「どういう風の吹き回しだ……?」
さすがに兄の前ではあまりだらしのない表情は見せられないと思ったのか、いつも通りの無表情に戻った冬ちゃん。サユリと顔を合わせてから軽く首を振る。
「まぁ……いろいろありまして、ね。」
〜2:青い集結〜
「……と、いうわけです。」
「なるほど、な。」
冬が語った説明は端的で必要最低限の内容でしかなく、経緯というほどの経緯が聞けたわけではなかったが、とりあえず何故この場所に冬とサユリが同席しているのかはわかった。
「つまり、偶然会っただけです。」
「そうそう、運命的邂逅だね。」
元々人を小馬鹿にしてるかと思うような言動の多いサユリだが、冬と同席するとその傾向がさらに顕著になる。それも自分を相手にしてる時にはあまり見せないような、タチの悪い冗談じみた戯言が増えるのだ。
「……物は言い様だな。」
「もう。この妹にしてこの兄有りだなぁ……少し夢のある考え方をしようよ?」
「お前の夢は命に関わるから御免被る。」
「あー、それは言えてるかもね。」
自分で認めて勝手にあははと笑っている。どこまで突っ走るつもりだこの女。
「ところで冬、何か用事があったんじゃないのか?」
年中ハッピーな紙飛行機女はとりあえず存在を黙殺しておくとして、本題に移ることにする。
「ああ……それなんですけど、その前に。」
冬は背負ってたケースを地面に置くと、中からベースギターを取り出す。その動作だけで何を言いたいのかは何となくわかったが、早とちりも何なので黙っておく。
「一曲……いかがですか、兄様。」
望むべくもない。前に会ったときからは少し期間が開いているから、きっと冬も相当腕を上げているだろう。もちろんこちらも負けているつもりはないが。
「いつものでいいか?」
ケースからギターを取り出し、たすきがけに通しながら聞くまでもない質問を口にする。いつも久々に会ったときは、このナンバーなのだから。
「わー、中島君と冬ちゃんのセッションなんて豪華だね〜♪」
既に観客モードを決め込もうとしてるサユリは、木の根元に腰を下ろして拍手などしている。人の特等席を勝手に陣取るんじゃない、まったく。
「無料で聴いちゃっていいの? いいの?」
「お前が差し出してくるものが安全である保障がないからな。」
「ロハで結構というかロハにしてください。」
ほぼ同時の返答。この辺は我々の間での共通見解らしい。
「あーらら、信用ないんだ。」
そんなことを言って拗ねて見せているが、傍らに紙飛行機を置いたのを見逃したとでも思ったかこの危険因子め。
「さて……
演るか。」
「ええ、
奏きましょう。」
二人のピックが同時に弦を弾くと、夏を迎えて緑を茂らせた大木が、その時を一気に遡らせた。
桜の花が狂い咲き、散るその刹那に、花びらが舞う。
そこに人はおらずとも、魅せられた想いが踊り出す。
それは夢か幻か、音の波が導き出す、真を蝕み超越した偽。
現の星空で見飽きたはずの、光の群れ、輝きの奔流。
風が突き抜け、依り集まる乱れ咲きを散らし、渦となって大樹を包む。
潮流はさながら激流のようにぶつかり合い、無限に広がり海となる。
目前に示されしは、さながら百花繚乱の海図か。
咲き誇れ。
咲き誇れ。
もはや言葉に意味などない
――
結びのフレーズを叫んだ瞬間、全ての現像がその存在を再び許され、元の形を取り戻す。
「……腕を上げたな、冬。」
「いえ、まだまだ兄様にはかないません。」
どちらともなく楽器を肩から外すと、手早くケースにしまい込む。魂を込めて一曲だけ、これが自分たちの挨拶代わりだった。
「やっぱり二人ともかっこいいね〜♪」
大きな拍手をしながらサユリがこちらに歩いてきた。そのまま目の前を通過して、ごくごく自然に冬の背後へ回り込む。いつもの流れとは言え、あの冬が背後を取られても平気な顔をしているのだから、それなりの信頼を得てはいるのだろう。もっとも、背後を取られるだけに留まらず、ああやって抱きつかれてなお無表情でいるのもある意味考え物ではあるが……。
「それじゃ、用件をお伝えします。」
そうだ、セッションに満足してそれを忘れるところだった。何故決して近くない実家から冬がお使いに来たのか。気にならないといったら嘘になる。
「来月から
――」
あ、ちょっと待て、嫌な予感が。
「
――こちらに引っ越してくることになりました。」
一気に言われてしまった。まあ、止めたところで事実が変わってくれるわけではないのだが。
「……冗談か?」
肯定で一つ頼みたい。
「事実です。」
やはり駄目か。
「お前一人だよな?」
これは肯定してくれ。
「まさか、そんなこと許してもらえるはずないです。」
「うぐっ……」
それはつまり、つまり
――
――あの妖怪ババァも……!?
「あいっかわらず口の減らない小僧だね。」
内心の声にツッコミを入れるその言葉は、直前まで誰もいなかったはずのすぐ背後から聞こえた。
「………うぉぉっ!?」
振り向きざま、何も確かめずにとりあえずギターケースを盾のように構える。直後に強烈な衝撃。急激に視界が後退し、地面が低い位置へ動いていく。いや、自分の体が浮かび上がっている
――
「何だ、意外と鈍ってないんだねぇ。」
反射的にとった防御行動が功を奏したのか、思ったよりも容易に空中で姿勢を立て直すことができた。下駄履きなので綺麗には着地できそうもないが、叩きつけられるよりは万倍マシだろう。
「くっ……ご挨拶じゃねぇか。」
膝をつくことで柔軟な着地を成功させ、前方に視線を向けなおす。そこにいたのは見間違えようもない一人のよく見知った女。
「ご挨拶はどっちの方さな。久々だってのに、のっけから化物扱いかい……まったく。」
半袖のセーラー服、額が見えるように大きく分けられた前髪、後ろ髪は長い2本の三つ編み、そして鋭い切れ長の瞳にかぶさる黒縁の眼鏡。
忘れない、見間違えない、この女だけは。
「相変わらず、変わり映えする気配もねぇんだからな……」
どこまで記憶を遡っても、こいつの姿はいつもこうだ。
「カーネーションの一つも手向けて出迎えるぐらいの孝行はしてほしいもんだね。」
「そんな南蛮渡来のイベントは2ヶ月以上前に終わってるだろ……。」
それ以前に贈り物をするほど恩を受けた記憶もない。仇を仇で返してほしいというならいくらでも返してやりたいところだが。
「だいたい、引越しは来月じゃないのかよ。あんたが来る必要は微塵ほどもないだろうに。」
遠回しに早く帰れと主張してみる。はっきり言って「早く」でも遅く感じるぐらいである。しかしこの女、いちいち引っかかる言動を発するわけで、ここでも例外ではなく
――
「もう一匹の坊主に早々に追っ払われて暇になっちまってたんだよ。」
「…………兄貴か?」
「ふん、食い付いたね。」
「うっ……」
やられた。本当に早く帰ってくれ。いや正直なところやっぱりしばらく帰らないで欲しい。
「あんたは口が悪いがあいつは相変わらず手癖が悪いね。あやうくコマ肉にされるところだったよ、まったく。」
恐らく比喩でなく本当に殺られかけたのだろう。どうやら熱くなると相手を選ばなくなる癖は変わっていないらしい。
「どうせロクでもない挑発でもしたんだろう?」
「とっととあんたを手篭めにしろって言っただけさ。」
「なっ……!!」
何てことをさらっと言いやがる。
「うわ何その顔、気持ち悪いったらありゃしないね。」
なんだとこのやろう。
「恋に恋する乙女が恥じらうような目をするんじゃないよ全く。」
(見た目だけは)乙女のあんたがそういう顔にさせるような言葉を吐くんじゃねぇよ。
「内心でばっかりツッコむなってのさ。相変わらずチキンだねぇ。」
「読心できる奴に発声するほど付き合い良くないだけだ……。」
――それにしても、この女に喧嘩を売るとはな。元気にやっているって証拠か……。
「安心したかい。もう、可愛いねぇナカジちゃんってば。あっははは!」
「だから勝手に読むんじゃねぇっ!!」
全力で抗議の体勢に入ろうとしてるこちらを無視して、性悪女は冬とサユリの方へ向き直る。言いたい放題言って一方的に切断とはいい度胸だ。とは言え、迂闊に手出しできないのが実情なのだが。
「随分と久しぶりだねぇ、サユリちゃん。」
「ご無沙汰しておりました。でもそれほど久しぶりでもありませんよ?」
「あれ、前は何十年前だっけねぇ?」
「まさか! そんなに経ったら私の方はお婆ちゃんになっちゃってますよ〜。」
「またまた、そうやって若いつもりでいようとするんだから。」
「いえ、本当に若輩に過ぎませんもの。あなたに比べたら未熟なところだらけですよ、本当に……」
「あらあら、上手だねぇ。しかしその手のジャージ、随分と気に入ってるみたいだねぇ。」
「いろいろと思い出深い時代だったんですよ……今の流行には合ってないけど、なかなか変えられなくて。」
非常に話が弾んでいるが、内容が一部不穏当なのでツッコむにツッコめない。同じような性質の存在だからなのか、サユリは初対面からこの女と妙に打ち解けていた。普通の人間とは違う「力」を持っていれば、この得体の知れない妖怪ババァに警戒心を抱いてもおかしくはないのだが
――
「聞こえてるよ。」
手を振る動作すら見えなかったのだが、気付くと首筋に一筋の細い傷ができていた。そういえば一瞬だけピックのようなものが見えて、風圧が通り過ぎたような気がする。
「まったく、あんな内心でしか愚痴の言えないヘタレのどこが気に入ってるんだい?」
「そういう弱いところがたまらないんじゃないですか〜。」
「肉親心理とは違うってところかねぇ?」
「それはありそうですね。」
ちらりとこちらに向けた眼鏡の奥の性悪そうな鋭い視線が、そのまま先ほどからサユリに抱えられている冬の方へ動いていく。
「あたしゃサユリちゃんのことは気に入ってるからねぇ。あんな腑抜けに嫁入りするぐらいなら、いっそ冬を嫁にもらってくれてもいいんだよ。」
「はあっ……!?」
「え……っ!?」
無茶苦茶な発言に度肝を抜かれたのは冬も同じだったらしい。傍から見ると恐らく同じ角度で眼鏡がずり落ちているに違いない。
「母様、それは……」
「いいじゃないか。冬だってサユリちゃんのこと好きだろう?」
「う……」
答えはYESなのだろうが、それを公言できないのが冬という子である。しかしNOという嘘も言えない子なので、結果として完全に言葉に詰まっている。
「冬ちゃん、ハネムーンはどこ行こうか? ふふふ……」
腕の中でかちこちに固まっている冬に、楽しそうに語りかけるサユリ。タチの悪いのが二人もいるせいで、状況はめちゃくちゃになりつつある。
「……………………」
冬は顔を真っ赤にしたまま俯きっぱなし。口も開こうとしない。
「……知りません、ていうか行きません。」
しばらくしてやっと言葉を発するが、いつも通りのそっけなさ。
「あれ〜、残念だなぁ……。」
「お待ちな、サユリちゃん。」
しかしそれで終わらせてくれないのがこのタチの悪い眼鏡女。サユリの肩に手をかけてにやりと笑う。その勝ち誇るような表情を見た冬の頬がますます紅潮し、それと同時にその眼鏡の奥に強い殺気が宿る。
「『紙飛行機じゃなくて本物の飛行機に乗って、幻影じゃない本物の南の島に行きたい』ってさ。あとは『夕暮れのビーチでおいかけっこして、夜は星空の見えるテラスで乾杯してその後は……きゃーきゃー』」
通常の知覚を有した人間だったら、空中にクレヨンで太めの線が描かれたように見えたのだろう。正確には今も描かれ続けているのだが。
「ばか、ばか、母様のばかーーーーー!!」
空中に残像が幾重にも残るような高速で、冬のマフラーが性悪女を滅多斬りにしていた。もはや細切れどころか千切りレベルにスライスされているが、言うまでも無く幻影である。恥ずかしさのあまり逆上した思春期の少女ぐらいでは、さすがにあの妖怪ババァを殺ることは難しいわけで
――
「だから聞こえてるっつってんだよ。」
後頭部にごくごく日常的な衝撃が加わる。どうやら何の工夫もなく普通にひっぱたかれたらしい。これはこれで結構痛い。
「やっと冬の癇癪が収まったか。さすがにちょっとふざけすぎたかね。」
ああいうのは癇癪とは言わない。至極正当な復讐だ。
「ううぅ……ぜぇ……ぜぇ……」
息を切らす冬の周囲に、身代わりとして切り刻まれた紙が無数に舞い落ちてきている。殺されたフリをしてこのふざけた「へのへのもへじ」をばら撒くのは、この性悪女の得意技の一つだ。
「気が済んだんならそろそろ帰るよ、冬。」
「寸断で気が済んだんなら……なんて。あはは……お母様ったらお上手ですね〜。」
ホントにハッピーな奴だ。実は今日は酔っ払ってるとかいうオチじゃないのか。
「やだな、そんなことないよ〜。」
うお、こいつにまで読まれたのか!?
「嬉しいんだよ……中島君、やっぱり寂しかったと思うから。」
そう、こいつはたまにこうやって、いきなり核心を突いてくる。
「別に、寂しくなんか……」
「嘘だよね。お兄さんとお別れして、泣いてたじゃない……ずっと。」
そして、サユリと出会った。
――「寂しいの? 会いたい?」
でも断った。跳ね除けた。彼女の力では、本当の兄には会えないと思ったから。
「中島君は頑張ってきた……だから少しぐらい大丈夫だよ?」
本当に会いたい人とはまだ会えない。でも、彼との繋がりを感じられる存在が身近に存在してくれようとしているのだ。
「冬ちゃんもお兄ちゃんの側で暮らせるし、お母様も退屈しなくなるでしょう。何より、中島君が寂しくない。」
認めてしまえば、サユリの言う通りだった。
「まぁ……これからよろしくな。」
そんなこちらのギブアップ宣言に、冬は黙って頷き、性悪女は相変わらずの意地悪そうな笑顔で答えてきた。
「何なら引越しの予定早めるけどねぇ?」
「冬だけなら明日からでも歓迎するぞ。あんたは向こう千年は無理しなくていい
――」
桜の大樹より高い位置から見る夕日は、なかなかに絶景だった。
あ、ギターケースにヒビ入っちまった……。
一時終劇