浄らかな静寂に閉ざされた鎮守の森で
 私は、一人の美しい妖精に出会った。

私は一目で彼女に魅了され、
 彼女も私のことを受け入れてくれ、
  二人は片時も離れず共に過ごした。

でも、幸せの終わりは唐突に訪れた。

私が村を離れねばならなくなったのだ。

別れを惜しみ泣き続ける私に

彼女は、優しく告げてくれた。

「あなたが美しく成長したそのころに、かならず迎えに行くからね。」と……





空島学園少女日記〜鎮守の森の妖精〜




−1−

 目が覚めて最初に視界に入ってきたのは、よく見慣れた自室の天井だった。もっとも、視界に入っているだけで、それがどんな物体なのかを理解するのに数秒を要してしまったのだが。夢だということを忘れるくらいリアルな夢を見ていたのに気付いた比奈は、ある予感に襲われて体を跳ね起こした。むしろ予感と言うより確信に近い。寝ぼけるくらいリアルな夢を見た翌日は決まって――
「……8時55分……遅刻確定だわ……。」
 枕元に置いてある目覚まし時計のスイッチは、しっかりとONになっていた。かなりけたたましい音を立てる旧型の目覚まし時計でさえ、深い夢の中に沈みこんだ彼女を連れ戻すことはできなかったらしい。
「まぁいいけどね……今さら皆勤賞が目指せるわけでもないし。」
 比奈が夢から抜け出せなくて寝過ごすのは、何も今日に始まったことではない。少なくとも小学校に通っている頃には、このパターンでたまに遅刻していた記憶がある。ということは、もうこの体質と七年以上のお付き合いになっているわけだ。慣れっこになってしまっているから、別段慌てることもない。もちろん目が覚めた瞬間だけは慌てるのだが、遅刻が確定しているとわかった時点で、それ以上慌てても意味がないのである。慌てることで瞬時に学校まで辿り着けるというのなら話は別だが。
「比奈ちゃーん、起きたー?」
 母の呑気な呼び声が聞こえた。この時間にいるということは、今日は仕事が遅出なのだろう。最近はフレックスタイム制とかいうシステムで、ある程度自由なシフトが利くのだとか。
放任主義か怠慢か、比奈の母は一人娘が学校に思い切り遅刻するような寝坊をしたときに、一度として起こしに来たことがない。初めて寝過ごした日に「何故起こしてくれなかったのか」と抗議したところ、「普段は起こさなくても起きるんだから、たまには寝坊したって良いんじゃない?」との返答。それ以来、比奈の起床がますます精密になったことは言うまでもない。
「いま準備して降りるよー。」
 少しぼーっとして、やっと全身に血が巡ってきた。別に持病を抱えているわけではないから、本当は初めから血が巡っているのだとは思う。が、「こういう朝」を迎えたときは、どうしても体が言うことを効かなくなっている錯覚を覚えるのだ。まるで夢の中での自分のように――
「……えっ……」
 自分が今考えたことが何を意味するのかに気付いて、身支度の手が止まった。そういう思考が頭に浮かんだことなど、今までに一度もなかったのだ。今までにもよくあった朝寝坊。でもいつもと何かが違う、確かな違和感があった。
 その違和感の正体がやっとわかった。夢の内容を覚えている。それがどんな夢なのか、自分がその中でどういう行動をしたのか、何を口に出して話したのか、そして……誰と出会ったのか。それを覚えていて、忘れる気配が全くない。
 この七年間に一度として、寝過ごしたときに見ていた夢の内容を覚えていたことはなかった。もしかすると起きてしばらくは、おぼろげに覚えているのかもしれない。だが、支度をしているうち、朝食をとっているうち、あるいは登校しているうちに薄れていき、いつも最後には夢を見たかどうかすら気にしなくなっていたのだろう。
ただ一つだけ確かにわかっていたのは、寝過ごしているときに見ている夢が全て、同じ内容のものだということだけだった。

 あの夢の内容を、現実にいる時に思い出すべきではなかった。あまりにも幻想的すぎるのだ。眠気はすっかり覚めていたが、現実の世界と夢の中の世界とのギャップに、比奈は頭がくらくらしてしまっていた。
 何とかダイニングに足を踏み入れると、皿に盛られた目玉焼きはまだ湯気を上げていた。どうやら、ちょうど良いタイミングで移動してくることができたらしい。いいかげん歩行が困難になってきていたので、比奈は力尽きるように食卓についた。
「あらあら。比奈ちゃん、まだ眠いの?」
 ご飯の盛られたお茶碗を持ってきた母が、比奈の顔を覗き込みながら苦笑していた。
「眠いんじゃないんだけどね……ちょっといろいろ。」
「夢見でも悪かったの?」
「え……」
 図星を簡単に指されて、比奈は言葉に詰まってしまった。もちろん、朝方にぼーっとしている理由などそう多くは考えられないから、簡単に言い当てられても不思議はない。ただ、夢の内容が再び頭の中に映像として浮かんでくると、体調が異常をきたしてしまうため、比奈としては話題に上げてほしくなかったのである。どう異常をきたすのかと言えば――
「あら……比奈ちゃん、お熱でもあるのかしら。顔が赤いわよ? ちょっと体が震えてるし……寒気もする? それに……何か目も熱っぽいわよ。」
 自分以外の人間が声に出して説明してくれると、傍目にはどんな状態に見えるのかわかるので非常に便利である。それが気分の良いことかどうかは別として。
「あ、いや……大丈夫よ? あはは……」
 心配そうな母の視線を全身に受けながら、比奈は大急ぎで目玉焼きとご飯をかきこんでお茶で流し込んだ。お行儀が悪いとは思ったが、こんな恥ずかしい状態を実の母親にさらけ出しっぱなしにするという責め苦から早く逃れたかった。勘の良い人だから、もっと突っ込んだところまで言い当ててくるかもしれない。万が一そんなことになったら、ますます落ち着かなくなるではないか。
「あ、そうか、な〜んだ。」
 ぞくりと、背中に悪寒が走った。母のにやにやした表情が全てを物語っている。あの顔を見せた彼女が、こちらの最も痛いところをついてこなかったことは、今までに一度として無かった。
「夢見が悪いどころか、いい夢見ていたわけ……」
「それじゃ、遅れてるからそろそろ出るねっ!」
 馬鹿正直に相手すれば泥沼だ。ちょうど遅刻が決定しているという大義名分もあるので、比奈は足元に置いておいた鞄を手に取ると、すばやくダイニングから飛び出した。
「あ、比奈ちゃん、ちょっと……」
 母が何か言おうとしていたが聞こえてないフリ。どうせ冷やかしの言葉の一つも飛ばしてくるつもりなのだろう。これ以上、恥ずかしい思いをするのはごめんである。
「行ってきま〜す!」
 靴も適当につっかけて、玄関のドアを乱暴に押し開き、比奈は通学路へと駆け出した。


−2−

 自宅から比奈の通う私立空島学園中等部までは、歩いて20分くらい。急いで走れば10分強という、どちらかというと近場である。遅刻すると非常に気まずいわけなのだが、常習犯だというわけでもないので、こっぴどく怒られたりはしないで済んでいる。せいぜい「明日からまた気をつけるように」程度の注意を受けるだけである。
 そんな事情もあって、家の門を飛び出した比奈はすぐにペースを落としていた。遅刻ギリギリだったら全力ダッシュをしても構わないが、今日はもう遅刻確定である。走っても遅刻、歩いても遅刻。だったら歩いた方が楽に決まっている。中途半端に一時間目の授業を聞くのもキリが悪くて嫌なので、休み時間の真ん中ぐらいに教室に辿り着くよう歩く速さを調節する。いつも登校で通る川沿いの道は、桜が満開で非常に華やかだ。ゆったりと歩いていると、桜の花びらがひらひらと舞い落ちてきた。
「……そういえばあの森も、葉っぱが落ちてきてた……。」
 
 あの夢の中で。比奈は森を歩いていた。大人たちが口を揃えて、足を踏み入れてはいけないと戒めていた鎮守の森。幼い比奈は、禁忌とされるその空間にいったい何があるのか、気になって仕方がなかった。だから祖母がうたた寝をしている隙に、こっそりと、誰にも見られていないことを確認して、その森に入ってみたのだ。
 それは一見して、普通の森だった。木々は村の道端に生えている街路樹と大差ないものだったし、おとぎ話に出てくるような巨大な大樹があるわけでもない。ただ、秋が近づいてひらひらと舞い落ちてくる葉っぱがうっとおしいだけである。
「何でお婆ちゃんはあんなにダメって言ってたのかな?」
 たしか、理由を教えてもらった記憶がある。初めは「ダメなものはダメなんじゃ」と一刀両断されていたのだが、毎日のように比奈が聞いてくるものだから、ついに根負けして教えてくれたのだ。それは確かこんな内容だった。
『鎮守の森は神様の世界と繋がっておる。神様の御使いに連れて行かれたら、比奈は二度とおうちに帰れなくなってしまうんじゃよ? だから、入ってはならんのじゃ。』
 祖母の言葉を思い出して、比奈はだんだん恐くなってきた。本当に神様の御使いが現れてさらわれてしまったら、二度と友達にもお婆ちゃんにもお母さんにも会えなくなってしまう。そんなのは嫌だ。御使いに見つかる前にここから逃げなくては!
「あれ? ここに誰かが来るなんて珍しいわね。」
 振り向いて走り出そうとした瞬間、高いところから綺麗な声が響き渡った。それまで音らしい音は、自分の足音と枝葉が擦れ合う音ぐらいなものだったから、比奈は驚きのあまりその場で軽く飛び上がってしまった。恐る恐る振り向くが、そこには誰の姿もない。
「違う違う、こっちよ……もっと上。」
「上……?」
 既に完全に怯えきってしまっていた比奈は、言われるがままに視線を上方に動かしていった。そこには――

 夢の内容を思い出しているうち、気が付けば校門の目の前まで来ていた。主観は完全に幻想モードだったから、距離も時間も超越してしまったような錯覚を起こしている。ここまでに信号を二つ越えているはずなのだが、ちゃんと信号無視しないで渡ってこられたのか怪しいものである。明朝からは、登校中にあの夢のことを考えるのはやめたほうが良さそうだった。
 守衛さんに学生証を見せて門を開けてもらい、比奈はのんびりと昇降口へ向かう。まだ一時間目が数分残っているので、急ぐ理由もなかった。むしろ残りわずかで授業に途中参加などしようものなら、休み時間がお説教で消費しつくされかねない。安全のためにも、ゆっくり行くのがベターなのである。
 こうやって頭を空っぽにして歩いていると、またあの夢が蘇ってくる――

 背のあまり高くない、でも見上げるぐらいの高さはある、そんな微妙な大きさの樹の枝に、一人の少女が腰掛けていた。落っこちてもちょっと痛いぐらいで済みそうな高さとは言え、登るのは大変だったのではないだろうか。
「そのままじゃ首が疲れちゃうか……えいっ」
 かと思ったら、少女は軽やかに枝から飛び降りてきた。落ち葉がクッションになったのか、足を痛めることもなくしっかりと着地する。
「ねえ、あなたどこから来たの?」
 そう言って微笑みかけてきたこの少女が、どこか現実離れした雰囲気を持っているように比奈は感じた。何か、比奈や友達のみんなとは違う何かを持っているような感じだった。
「どうしたの? 私のかっこ、ヘン?」
 比奈が無言でじーっと見つめていたからなのか、少女は両手を軽く上げて、自分の姿をちらちらと見ながらそう言った。さっきまで動揺と恐怖のあまり気が回らなかったが、よく見れば着物を着ている。ただ、別にそれが彼女の雰囲気の原因というわけではないような気がした。
「ううん……そうじゃないんだけど……」
 変だと考えてると思われたくなかったから、とりあえずそう口に出しておく。黙っていたら「うん」と受け取られてしまうかもしれなかったから。
「よかった。」
 少女は袖で口を覆ってくすりと笑う。その仕草がすごく可愛くて、比奈は少し胸がどきりとした。
「わたし、ひな。お寺のとなりのおうちから来たの」
 だいぶ遅れてしまったけど、比奈は少女の最初の質問に答えた。
「おてら? それってどこにあるの?」
 少女の次の質問に、比奈は絶句してしまった。村に一つしかないお寺だし、子供たちの遊び場のひとつだから、村の者なら誰でも知っていることなのだ。場所をざっと説明してあげると、少女は嬉しそうに目を細めた。
「そんな遠くから来てくれたんだ。」
 別に少女に会うためにここへ来たわけではないのだが、彼女が嬉しそうだと比奈も何故か嬉しかった。
「ねえ、あなたは誰? どこの子なの?」
 今度は比奈が質問する番だった。そう、今さらながら気付いたのだが、こんなに人の少ない村で知らない子供がいるということは、まずありえないのだ。可能性があるとすれば、最近引っ越してきた子とか、たまたま都会から親の里帰りについてきた子とかである。
「私?」
 でも、彼女の答えはそのどちらでもないような気がしていた。
「私はいろは。この奥のおうちに住んでるの。」
 森の奥、そこは神様の世界。そこに住んでいるということはつまり――
「あなたが……神様の御使い!?」
「え……おつかいって何?」
「御使いって……あれ、なんだろう?」
 お婆ちゃんがずっとおつかいおつかいって言っていたけど、考えてみたらそれが何を意味する言葉なのかよくわからなかった。教えてもらった気がするけど、今度はすぐに思い出せそうもない。ただ、それがこの森に入った人を神様の世界に連れて行ってしまう恐い存在だということだけは確かだった。
「うーん、よくわからないけど……」
 いろはは首をかしげて唸っている。
「あ、でもね。」
 が、すぐに唸るのをやめて、得意げに胸を張りながらこんなことを言った。
「私のおうちね、神様が住んでるの。お父さんとお母さん、神様のために働く人なんだって。」
 その言葉で思い出した。御使いとは神様のしもべ、神様に仕えて働く人のことだ。いろはがその娘ということは、やっぱり……!
「あれ? どうしたの?」
 突然、比奈が悲壮な表情を浮かべてわなわなと震えだしたので、いろはは目をぱちくりさせて比奈の顔を覗き込んできた。
「わたし……わたし……神様の世界に連れて行かれちゃうんだぁ……」
 ついに耐え切れなくなった比奈は、その場にしゃがみこんで泣き出してしまった。いろはは状況に全くついていけてないらしく、いきなり上げられた比奈の泣き声に思わず後ずさってしまった。しばらくは何もできずに立ち尽くしていたいろはだったが、いつまでも泣き止む気配のない比奈の様子を見て、一歩、歩み寄ってきた。
「ひなちゃん、泣かないで。」
「あ……」
 ふわり、と。
 しゃくりあげる比奈を、いろはが抱きしめてくれた。そうしたら、恐くて止まらなかった涙がぴたりと止まってしまった。
 それで比奈は気が付いた。別にいろはが恐かったんじゃない。お婆ちゃんに言われた「連れて行かれる」という言葉が恐かったんだって。
「大丈夫だよ、恐くないよ。」
 そう言って頭を優しく撫でてくれる。手のひらから伝わってくるぬくもりが、比奈を安らかな気持ちにしてくれた。
「うん……ごめんね、いろはちゃん。」
「え? なんで謝るの?」
 いろはは比奈の内心を知らないからか、きょとんとした顔をしている。
「わたしね、いろはちゃんに恐いところにさらわれちゃうと思ってたの。お婆ちゃんが、あの森に入ったら帰って来られなくなっちゃうよ、って言ってたから。」
 この言葉には、さすがにいろはも目をぱちくりさせて絶句してしまっていた。でも、どうやら気分を悪くしたわけではないようだったので、比奈は胸を撫で下ろした。
胸を撫で下ろして気付いたが、どうもいろはに嫌われるのが一番恐れるべき事態だったようだ。自覚が今まであまりなかったが、どうも自分はいろはに惹かれているらしい。子供ながらに、比奈はそんな自己分析を内心に行っていた。
「ひなちゃんをさらうなんて、そんなことしないよ〜。」
 腕組みをしながら、いろはは困ったような顔を見せた。怒っているわけではないが、誤解だということを強く主張したいらしい。
「うん、いろはちゃんは優しいから、そんなことしないよね。」
 とんでもない勘違いをしてしまったことが恥ずかして、照れ隠しに頭を掻きながら苦笑してみせる比奈。そんな様子を見て、いろはもすぐに気が治まったようだ。組んでいた腕を解いて後ろ手に組みなおし、ニコリと笑い返してくれた。
「でもね、いろはちゃん。」
 そう、それは幼いながらに精一杯の告白だったのだろう。
「なぁに?」
 それが思いつく限りの殺し文句だったに違いない。
「わたし、いろはちゃんにだったら、さらわれても別に恐くないからね。」


−3−

 ごん、という音が耳に入ってきて、比奈はようやく我に返った。額のあたりに何か木でできた物体がぶつかったような感覚だった。周囲を見回せば、ちょうど隣りのクラスの前の廊下、そして正面には――
「あ、蓮沼先生、おはようございます。」
「おはようございますじゃないっての。歩きながら寝てたのか?」
 一時間目の教科である数学の担当教師・蓮沼が、黒板に図形を書くために使う巨大な木製の定規を抱えて立っていた。いつもならこのように前の時間の担当教師と鉢合わせしないために、遅刻してくるときには遠回りをしていたのだが、今日は幻想モードに入っていたために、ついいつものルートで歩いてきてしまった。無意識に任せたらいつものルートになっていたと言った方が正しいだろうか。
「西台の場合は一学期に二、三回程度だからそんなに問題はないけどな。明日からまた気をつけるように。」
「はい。」
 軽く会釈して、蓮沼教諭の脇をすりぬける。その向こうでクラスメートの数名が、お迎えにあがりましたとばかりに並んでこちらを見ていた。
「ニシ、ひさびさの大遅刻だな。」
 しゃべり方がちょっと乱暴な、ショートカットが凛々しい高島真奈美。
「西台さんの場合、定期的に恒例だから蓮沼先生も何も言わないんだね。」
 性格と同じくらい優しい口調だが、どこかにかならず毒が混ざっている、おさげ髪の蓮根美穂。
「……ん? 西台ちゃん、風邪? 顔赤いけど。」
 軽い性格に軽い口調で一見してパーに見えるが、実は意外と洞察力があるポニーテールの志村久美恵。
 彼女たちがクラスでも特に比奈と仲の良い、通称「仲良し三人組」だ。ちなみに比奈はその「保護者」と言われている。かしましくて落ち着きがない彼女たちとは違って、妙に老成しているところがあるためで、「おっかさん」などというある意味で失礼極まりない呼び方をする男子までいる始末である。
「うーん、そうじゃないんだけど……なんか調子悪い。」
 親友たちが口々に声をかけてきているが、いまいち認識が追いついていない。彼女たちの誰の方でもない虚空に視線を向けたまま、比奈は手短に返答して教室に入っていった。遅刻自体はたまにあることなので心配していなかったが、このような無気力症状は初めてだったため、仲良し三人組は言葉を失ってしまった。誰が始めるともなく一斉に、比奈の様子を伺い始める。
 ややふらついた足取りで席に向かい、鞄を椅子の上に置く。そこに置いたら自分が座れないと気付いて、今度は机の上に置く。そして自分が椅子に座ってから、今度は教科書とノートを広げられないことに気付く。そこで何故か立ち上がって鞄を椅子に下ろし、教科書とノートを机の上に置いてから、椅子に座れないことに気付いて……そんな感じである。あまりにも上の空、というより何も見えていない。まさに「心ここにあらず」の典型例をその身で示していた。心配を通り越して面白くなってきてしまった三人としては、そのまま比奈の奇行を眺めていたかった。が、次の担当教師が教室に入ってきてしまったので、仕方なく席に戻っていった。
 さすがに授業中は完全に上の空にはならないで済んでいた。これが社会科の授業などだったら完全に意識が飛んでいただろうが、幸か不幸か二時間目は英語だったのだ。ぼーっとしている間に当てられてしまうと、どこを読めば良いのかわからないという失態をさらけ出すことになってしまう。が、だからと言って完全に幻想モードから抜け出そうとすると、頭から煙を吹き出すかと思うほど落ち着かなくなるので、軽く思い出しながら授業を受けることにした。
 ただ、考えてみればあの夢の内容など他にはもうほとんど無いのだ。というのも、その後はいろはと仲良く遊んでいるだけ。来る日も来る日も大人たちの目を盗んであの森に入って行っては、いろはと夢のような楽しい時間を過ごすだけ。まさに夢のお話である。
 これが本当に夢の中のおとぎ話かと言うと、一部そうでない部分もある。比奈は小学校に上がるより前の幼い頃に一年ほど、祖母の家で暮らしていた時期があった。父が事故で急死してしまい、母が生活を支えられるだけの仕事を見つけるまでの間、祖母に預けられていたのである。夢の中で舞台になっている村は、そのときに暮らしていた田舎の村そのものだ。「お婆ちゃん」はまさに比奈の祖母その人だし、鎮守の森もたしかにあった。入ってはいけないと強く戒められていたので、足を踏み入れたことはなかったはずだ。もっとも、そんな昔のことなどおぼろげにしか覚えていないわけで、実際には大人たちの目を盗んでこっそりと入ったことがあるのかもしれないが。
 ただ、誰かと出会ったということだけはありえないはずだ。ついこの前の春休み、祖母の家へ遊びに行った時に聞いたばかりなのだから。
『お婆ちゃん、この森って誰か住んでるの?』
『いや、民家はないはずじゃよ。鎮守の森じゃぞ? 奥にあるのは神様のお住まいだけじゃ。』
 おそらくは、何か神秘的なものとの出会いを求めて入ったのに、何事もなかったのではないか。それがつまらなかったから、今でも記憶を脚色した夢を見るのだろう。確かに夢の中に出てくる少女いろはは美しい娘だった。彼女に心惹かれた、いや、今でも惹かれている自分がいる。恋煩いとはこういうことを言うのだろうか。彼女のことを思い出すと、どうにも体の調子がおかしくなる。だが夢の中の登場人物ということは、自ら創造している人物だ。それにも関わらず、やはり自分は本気でいろはに魅せられている。それは間違いない。これは一種の自己陶酔なのか。それとも実は、いろはは西洋のおとぎ話に登場する夢魔の類なのだろうか? いや、それこそ非現実的だ。
 そんな風に思考をぐるぐる回しているうちに、気が付いたら授業が社会科に変わっていた。器用なことに、教科書とノートは社会科のものにしっかりと取り替えられている。あとで仲良し三人組に聞いたところ、前の時間はしっかりと教師に指名され、ぼけーっとしたまま英語の教科書を読んで和訳まで答えていたそうである。どうも自分の新たな特技を発見してしまったようだ。こういうのを怪我の功名と言うのかもしれない。比奈は自分の知られざる特技に感謝しながら、幻想モードを続けることにした。


−4−

 どんなに素敵な夢だろうと、空腹感に支配されては見続けることも叶わない。まして、今週の給食当番に自分の名が連ねられているという事情があるなら尚更である。授業を聞く聞かないは、影響が及ぶのが自分だけなので大して気を使わない。だが、盛り付けの分量については大きな波紋を巻き起こす可能性を大いに秘めている。なので、さすがの比奈もこの時間ばかりは現実にしっかり留まっていた。
 責任重大な職務から解放されて席に着くと、またいろはの笑顔が脳裏に浮かんでくる。そのまま幻想モードに再突入しようとした比奈であったが、背後にいる仲良し三人組の会話の中に自分の名が聞こえたので、しばし現状を維持してみることにした。
「ニシのやつ、どうも様子がヘンだよな。」
「西台さんって元からのんびりしてるけど、今日はちょっと感じが違うよね。」
「溜め息が多くて、なんか熱っぽくって……まさか恋煩い?」
 聞こえてきた単語に驚いた拍子に、シチューの一部が気管に流れ込んだ。何の騒ぎかと振り返った三人組が、激しく咳きこむ比奈を見て目を丸くする。が、その丸くなった六つの目の目尻が同時に下がり、口の端がやはり三人同時に上がった。何事もなかったように自分の机の方に向き直ると、三人組の会話が再開される。当然だが、死ぬかと思うほどむせていた比奈は、彼女らの反応には全く気付いていない。
「……うーん、でもな、あのニシが恋煩いってキャラか?」
「そうよね、西台さんって落ち着いてるの通り越して枯れちゃってるところあるから……学校を代表するような美男子と顔色一つ変えずに会話するものねぇ。」
「でもあれは恋する乙女の顔だよ……何も相手は男とは限らないじゃない? 実は意中の人は女の子なんだったりして……」
 きゃーっと三人組が何故か嬉しそうな黄色い悲鳴を上げたのと、今度は牛乳が気管に流れ込んだ比奈が激しく咳きこんだのは、ほぼ同時のことだった。
「……ごほごほっ……あなたたちねぇ……全部聞こえてるんだけど。」
 二度も死にそうな思いをさせられたのでは、さすがに抗議の訴えもしたくなる。いくら無関係なフリをしたところで、彼女たちが確信犯的にやっているのはミエミエだった。悪ふざけにしてはややタチが悪い。
「すまんニシ。面白いもんだからついな。」
「西台さんの行動がこんなに前後不覚なのってなかなかないから、ちょっとつついてみたくなっちゃったのよ。」
「でもさ、西台ちゃんそんなに慌てちゃって、もしかして図星だった?」
 久美恵の洞察力がこんなに恐ろしく感じたことは今までになかっただろう。きっぱりと完全否定しておきたいところだが、どうしても夢の中のことが頭から離れないため、比奈は顔を真っ赤にして首をぶんぶん振ってみせるしかなかった。
「そのリアクションはあんまりにもアレだぞ、ニシ……」
「西台さんってそういう妖しいの、結構似合うわよねぇ。」
「ねぇ、ねぇ、お相手はどなた? あ、私はダメだからね。西台ちゃんは可愛いけど、私自身がフリーじゃないの。」
 心配しなくてもあなたたちじゃありえないから。と、口に出そうと思ったがやめた。そんなことを言えば、逆に執拗に相手の名前を聞き出そうとしてくるだろう。あまりにヤブヘビである。夢の中の相手に魅了されてるなんて言ったら、からかわれるだけじゃ済まない可能性も考えられる。詳細にはなるべく触れさせないように、のらりくらりとかわしながら給食時間をやりすごす比奈であった。

 給食時間終了のチャイムは、同時に昼休み開始のチャイムでもある。元気のある男子生徒などは、投げるように食器とトレイを片付けて校庭に飛び出していくものだ。だが、今日はある意味で様子が違った。
「……真奈美さんや。」
「なんだ?」
 まるで食後のお茶を要求する老人のような言い方になってしまったが、それだけ比奈の驚きが大きかったのである。
「男子の間で全員が同時参加するような競技でもブームになっているわけ?」
「ああ、西台さんは知らないのよね。まぁ、似たようなものかもしれないけど。」
 横から美穂が口を挟んできた。
「朝の学活で先生が言ってたのよ。2組に転校生が来たんですって。」
 ちなみに比奈が属するのは3年4組、2組は隣りの隣りで距離も離れており、朝の学活で話があっただけでは知る由も無い。しかし時期的に微妙とは言え、転校生程度で大騒ぎする歳でもあるまいに。
「と、お思いでしょ? これが事情があってね〜。」
 ぴょこりと美穂の裏側に現れた久美恵が、またもこちらの考えてることを見透かしてきてくれた。考えを口に出さずとも話が進んでいくのは、ある意味で楽といえば楽なのだが。
「女子、それもかなりの美人らしい。もちろん、これは先生ではなく生徒筋の情報だが……。」
 真奈美が呆れ顔で溜め息交じりに説明してくれた。まず興味本位に1時間目終了後に見に行った男子がいた。クラスの有名人、情報通の巣鴨君である。ちょうど比奈が登校して蓮沼教諭にぶつかっていた頃、巣鴨君はその転校生の美貌に驚愕し、4組の教室に飛んで帰って友人たちにそのことを報告していたらしい。次の休み時間には、巣鴨+友人数名が2組の教室へ偵察に行き、やはり飛んで帰ってきて彼ら自身の友人たちに報告、その次の休み時間には巣鴨+友人+その友人という結構な人数が2組の教室へ、その輪は広がり続け、ついに昼休みには男子全員が2組の教室へ向かうという奇妙な現象に発展してしまったらしい。もちろんその中には、「美人だから」という助兵衛根性ではなく単なる興味本位で行く者や、無理矢理友達に付き合わされている者なども含まれている。とは言え、クラス一つを巻き込む騒動というのは一大事である。
「面白くないのは私たち先住の女子だろうな。まぁ、私は何とも思わないが……センあたりの動向が恐いかもしれんなぁ。」
 真奈美の言う「セン」とは、クラスの女子の元締め的存在である千石裕子のことだ。通常、クラス内では男子と女子がそれぞれコミュニティを形成しがちなわけだが、仲良し三人組&おっかさんはどちらかというと中立、というか独立している節があった。特に男子とムキになって張り合う意味も感じないし、暗黙のルールみたいなのも知ったことではない。ただ、男子からも女子からもそういう特殊な存在として認識されているわけであって、別に村八分と言うわけでもない。
「女の嫉妬は恐いわよねぇ。転校生さん、余計な恨み買わなきゃいいけど。」
 自分が女であることは考えてなさそうな呑気な口調で、美穂は溜め息をひとつ吐いた。
「うーん、どうだろね。私が見た感じだと、あの転校生って……あ、巣鴨だ。」
 久美恵の言葉で振り向くと、教室の入り口から男子がぞろぞろと教室に入ってきた。なぜなのか、皆一様に疲れ果てた顔をしている。
「あ〜ら巣鴨君。お早いお帰りねぇ。」
 話題の人、千石裕子が巣鴨に先制攻撃をしかけた。
「……いや、俺たちは甘かった。」
「……は?」
 どうせ「お前らとは格が違うぞあの人は」みたいな失礼なことを言われるのだろうと思っていたのか、裕子は目を丸くして言葉を失ってしまった。
「あの人はダメだ……なにか違うんだよなぁ。美人だけどどうにも幻みたいって言うか……現実味がない。」
「なにそれ? あんたいつの間にポエマーになっちゃったわけ?」
 呆けた顔でぶつぶつと漏らす巣鴨に、裕子は怪訝そうな顔をしてみせた。
「少し話をしてみて思ったんだな。やっぱり幻の美人より現実の凡人だよ。うん、君は女性として素晴らしいよ千石。凡人でも現実だもんな。」
「やだ、そんな、褒めても何も出ないわよ?」
 改心の笑顔で巣鴨が言うので、一瞬だが裕子はつい照れて見せてしまった。が。
「……って、誰が凡人よっ!」
 結局、いつも通りのバトルが始まってしまったので、仲良し三人組は彼らの会話から耳を離した。いいかげん聞き飽きたお決まりの口論になるであろうことが目に見えていたからだ。
「夢の美人より現実の凡人か……現実の美人が一番だと思うんだが。」
「それもそうね。でもなかなか都合良くは行かないから現実なのよねぇ。」
「現実の美人、ここにいるじゃない。いや、私じゃなくて西台ちゃ……あれ? 西台ちゃんは?」
 比奈の肩をぽんと叩こうとして空振りした久美恵は、教室内をざっと見回した。しかし、比奈の姿はどこにもない。
「ニシなら給食の片付けに行ったが……帰りが遅いな。」
「転校生を見に行ってたりしたら面白いわねぇ。」
 もう一度見回してみると、3年4組の教室内は巣鴨vs千石の恒例バトルで大盛り上がりであった。


−5−

 給食の食器などを片付けるスペースは、ちょうど3年1組の真向かいあたりにある。当然だが、帰り道には3年2組の教室がある。比奈としても話題の転校生とやらが少し気になってはいたものの、別段急いで確かめる必要性も感じなかったので教室に戻ることにした。
 だが、やはり2組の教室の前で比奈の足が止まってしまった。ただし、その体は教室とは間逆の方向に向けられている。2組の教室の向かい側、そこには中央階段がある。それを下れば3階、登れば屋上だ。空島学園中等部の校舎は三年生の教室が最上階の4階にあり、下っていくと学年も下がっていく。学校に慣れた3年生がもっとも長い距離を移動して教室に行くのが筋である、という設計思想らしい。
 比奈は虚ろな目を階段に向けたまま、その場に硬直していた。理性が訴えている。その階段を登ってはいけないと。でももっと心の深い部分にいる何かが訴えている。登らなくてはならないと。ふらふらとした足取りで、一歩一歩、比奈は階段を登っていく。天国に繋がっているのかと思うくらいに、階段は長く感じた。段数にして二十八段、距離にして十数メートルを進むのに、永劫とも思える時間がかかったような錯覚を覚えた。目の前には、屋上の入り口のドアがある。名目上は立ち入り禁止だが、実際には鍵はかかっていない。比奈はそのドアノブに手をかけ、天国への扉をゆっくりと開いていった。

「……ああ、思ったより早く見つけられた。」

 突然、頭上から声が聞こえてきたので、思わず体がこわばってしまった。こちらが振り向くのを待たずに、給水タンクの上から声の主が飛び降りたのが気配でわかった。
「あのままじゃ首が痛くなっちゃうものね。お互いに。」
 それは夢の中で聞いた言葉とよく似ていた。内容も、声そのものも。そう、階段を少しずつ登っている間に、予感が膨らんではいたのだ。そして、おぼろげにだが記憶が蘇りつつあった。夢の中身に関する記憶ではなく、あの村で過ごした、子供の時の記憶が。

 お母さんが迎えに来た。そう、顔を見せに来たのではなく、迎えに来たのだ。明日のお昼の新幹線で、比奈はこの村を離れなくてはいけない。だから――
「……うぅ……ぐすっ……いろはちゃぁん……」
 あの鎮守の森で、比奈は一人泣いていた。この村を離れるということは、いろはとお別れしなければならないということ。永遠に続くと思っていた二人の幸せな時間が、突然終わろうとしていたのだ。
「ひなちゃん……どうして泣いているの?」
 約束通りの時間に現れたいろはは、比奈が泣いているのを見つけると血相を変えて駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「わたし、帰らなきゃいけないの……あした……だから……いろはちゃんともう遊べなくなっちゃう……会えなくなっちゃう……!」
 嗚咽だけだったのが、いろはと話したことで再び泣き声に変わってしまった。いつまでも泣き止む気配のない比奈を、いろははいつまでも抱きしめていてくれた。
「ねぇ、いろはちゃん……」
 どれだけ泣き続けたのか、やっと涙が止まった比奈は意を決していろはに告げた。
「いろはちゃんは神様の御使いなんだよね? だったらわたしを……神様の世界にさらってよ……わたし……いろはちゃんと離れたくないよ……!」
 必死だった。いろはと離れたくない、その一念だけで、比奈は言葉を搾り出した。
「ひなちゃん……それはダメだよ。」
 でも、いろはは寂しそうな笑顔を浮かべて、静かに首を振って見せた。
「そうしたら、ひなちゃんのお母さんもお婆ちゃんも寂しくなっちゃうよ。みんなひなちゃんが大好きなんだから。」
 いろはの言うことはよくわかっている。自分だって、お母さんもお婆ちゃんも、みんな大好きだ。
「でも……わたし……いろはちゃんが……」
 こんな状況になっても、その言葉を口にするのには勇気が必要だった。いや、もうお別れだからこそ、口にしたくなかった。それでも、比奈は顔を上げてはっきり告げた。
「いろはちゃんが、一番好きだよ……。」
「ひなちゃん……」
 比奈は笑顔のまま涙を流していた。また涙が出てきてしまったけど、笑顔で言うことができて本当によかった。
それがお別れの挨拶だと、二人は語らずともわかっていた。最後にもう一度、いろはは比奈を強く抱きしめてくれた。
「私もあなたが好き……ひなちゃん、一つ約束するわ。」
「え……」
「今はお別れ。でも、いつか必ず、ひなちゃんのこと迎えに……さらいに行く。」
 抱きしめる力が強くなる。痛いぐらいに。
「……いろはちゃん……うん、わたし待ってるよ……」
 それに答えるように、比奈はいろはの胸に強く頬を当てた。
「いつか……あなたが美しく成長したそのころに……」


−6−

「……かならず迎えにいくからね……そう約束したよね。」
 いろははあの頃と全く変わらない、他の誰もが持ちえない不思議な雰囲気を纏っていた。一気に記憶が蘇って来た反動と、いろはの持つ一種の魔性にあてられて、比奈は意識が朦朧としていた。
「私を……さらいに来た……?」
「ええ。私は一時もあなたのことを忘れたことはなかった。美しく成長したあなたに再会するこのときを、本当に楽しみにしていたのよ……。」
 屋上の中ほどまで最初に足を踏み入れたため、比奈はフェンスを背面にいろはと対峙している。入り口は、いろはの背後にある。つまり――
「もう絶対に逃がさないよ……ひなちゃん。」
 その口から自分を呼ぶ言葉が発せられた瞬間、比奈の体に電撃が走るような衝撃が襲いかかった。立ち続けているのがつらくなって、比奈は一歩一歩ふらふらと後ずさっていく。
「いろはちゃん……」
 夢ではない、現実に目の前にいる人物に、その名をもって呼びかけることができる幸福。あまりの快感に、比奈の意識はますます混濁していく。
「さぁ、いっしょに行こう。今度は私、ためらわない。」
 比奈が後ずさるのに合わせて、いろはが一歩ずつ歩み寄ってくる。結果として、比奈はフェンス際に徐々に追い詰められていた。二人の歩みはぴたりと呼吸が一致している。後ずさる比奈と歩み寄るいろは。ほどなくして、比奈はフェンスに追い詰められた。力なくフェンスに背中を預ける比奈。
 いろはに連れて行かれる、最初にそう思ったときには、まだためらいがあった。今の比奈には、いろは以外にも多くの人との繋がりがあった。親友である仲良し三人組、裕子を初めとしたクラスメート、先生、そして母。皆と離れてしまうことが恐ろしく、悲しかった。昔、いろはと別れたときと同じくらい。でも、いろはと話しているうちに理性が融解していってしまった。大切なもの全てと別れても、やっぱりいろはと一緒がいい。失ったはずのいろはが帰ってきた。もう離れたくないに決まっている。
 だがそこでふと気が付く。絶対に連れて行くというのなら、何故いろははすぐに連れていってくれないのだろう。なぜ自分は、いろはとこんなにも近い距離にいるのだろう。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、こんなにも近くにあって、そう、まるであの時の繰り返し――
「……あ…………おまじない…………」
「ふふ……、やっと思い出したんだ。」
 うわごとのようにつぶやいた比奈に、いろははちょっとだけ苦笑を浮かべてみせた。

 唇に柔らかい何かが押し当てられているのを感じながら、比奈はあのお別れの日のことを全て思い出していた。比奈をずっと抱きしめていたいろはは、ゆっくりと体を離すと、比奈の両の頬にその手を優しく添えた。
「おまじない……もしも迎えに行ったときに、ひなちゃんがわたしのことを忘れちゃってても……」
 比奈は何も言わず、いろはの次の言葉を待っていた。
「思い出せるように……」
 いろはの綺麗な漆黒の瞳がゆっくりと近づいてくる。その瞼が閉じられると、比奈もゆっくりと目を閉じた。すぐに唇が優しいぬくもりに包まれる。
 お互いの涙を触れ合った唇に感じた。それを合図にするかのように、いろははゆっくりと身を離していった。二人が繋がっていたのはごく短い時間だったのかもしれない。でも、比奈には、そしてきっといろはにも、永遠とも思える長い時間に感じられた。

 それはどちらの涙だったのだろう。あの時と同じように、触れ合う唇にあたたかい雫が伝っていた。体が離れる感覚のあと目を開けると、そこには昔と変わらぬ笑顔に涙を浮かべた、でもたしかに自分と同じだけ歳を重ねたいろはがいた。
「全部……思い出した?」
「うん……ごめんね。」
 それは答えが既にわかっている質問だったのだろう。比奈が答えるのを待たずに、いろはは比奈を抱きしめてくれていた。昔と変わらず優しく、でも昔よりずっと力強く。
「ひどいよね。ひなちゃんってば、廊下ですれ違っても声一つかけてくれないんだもん……。」
 ちょっと拗ねたような口調でいろはが言う。子供の頃は自分が甘えてばかりいたので、ちょっと新鮮だ。しかし、そんなことをした自覚はまったくない。いつの話だろうか。
「……え……そうだったの?」
「そうよ。私の脇を何も言わずにすり抜けて、数学の先生にぶつかってたじゃない。」
それで納得した。そのときの比奈は幻想モードに入っていて、現実の映像はまったく目に入っていなかった。夢の中のいろはを思い浮かべて、現実のいろはを見落としていたなんて笑い話にもならない。

『やっぱり幻の美人より現実の凡人だよ。』

 給食の食器を回収スペースに持っていく際、教室を出る前に聞こえた巣鴨君の言葉を思い出してしまった。まさに彼の言うとおりだ。ましていろはは現実の美人、幻の美人より現実の美人などと、間違いようのない選択である。
「……真奈美さんなら言いそう……。」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。」
 つい思ったことが口に出てしまった。内容までは聞こえなかったらしく、いろはは首を傾げてキョトンとしている。こういう仕草は、8年経った今も変わっていないようだ。そう、あの森での出来事は、空想ではなく現実の記憶。
「あれも夢じゃなかったし……これも夢じゃないんだね。」
 至福の笑みを浮かべて比奈が呟く。いろはもまた、優しい笑顔を見せて頷いてみせた。
「ええ、私はひなちゃんの側にいるよ。昔も……今も……これからも……ね。」

−7−

 いろはとの再会を喜んでいる間に5時間目は終わってしまい、休み時間を見計らって教室に戻った比奈は、クラスメートの注目を一身に浴びてしまった。とくに仲良し三人組は様々な憶測を立てて議論を繰り広げていたらしいが、結局例によって、久美恵のヤマカンが大当たりをしたらしい。曰く、
『意外と転校生が顔見知りで、数年越しの片想いが爆発しちゃったとかじゃないの?』
とのこと。片想いが両想いだったこと以外はほぼ的中。改めて、その「超能力」に感心してしまった比奈であった。

 放課後、早速いろはを下校に誘おうと、比奈は2組の教室へ向かった。手を振って見せると、満面の笑顔で答えてくれた。
「さ、帰ろう。」
 開口一番、まるで今までも一緒に帰っていたかのように、いろははあっさりと言ってのけた。こっちはどうやって誘おうかいろいろ考えていたというのに、呑気なものである。考えてみれば昔もいろははそういうところがあった。照れているのは比奈の方だけという状況が結構あったのだ。乙女心を持つ年頃の少女としては、ちょっと寂しい気がしないでもない。
「へぇ、その子がニシのハニーか。」
「あら、やっぱり可愛い女の子同士だと絵になるわねぇ。」
「こそこそ出て行ったから怪しいと思ったんだよね。やっぱりここだったか〜。」
 いいかげん聞き慣れたかしましい三連続発言に、比奈はおそるおそる振り返った。
「う……な、なんのご用かしら?」
 三人娘のおっかさんで定着している比奈としては、あまり鼻の下を伸ばしているところを見られたくなかった。
「いや、仮説を確信に変えたかっただけだ。」
「もう帰るわよ。せっかく久々の逢引ですものね。」
「ごゆっくりどうぞ、お邪魔虫は退散するからね〜。それじゃまた明日ね、ご両人♪」
「く、久美恵!」
 顔を真っ赤にして軽口に抗議する比奈に手を振りながら、三人娘は階段を下りて行った。後に残された比奈は肩を落として溜め息を吐く。
「ふふ……面白い人たちだね。」
 彼女たちと比奈が話している間、いろはは何度も楽しそうに大笑いしていたようだった。
「まぁ……疲れるけど、いい子たちだよ。」
「あの子たちも面白いし……出会う人出会う人みんなと話すのがね、すごく楽しいんだ。」
 そう話すいろはの瞳は、未知のものに出会ったことへの喜びに満ちていた。
「いろはちゃん……。」
「お父さんとお母さんにはすごく心配をかけていると思う。でも、やっぱり私、この町に出てきてよかったよ。」
 少しだけ寂しそうに目を伏せたけど、すぐにいろはは満面の笑みを浮かべていた。

 校門を出たころには、日もだいぶ傾いていた。春も半ばまで来ているとはいえ、まだまだ日没がゆっくりになったとは言えない。
「ねえ、いろはちゃん。」
 比奈はふと思い立って、一つの質問をしてみようと考えた。
 子供の頃に教えてもらった「いろはの家」、それがいったい何なのか。あの頃のことを全部思い出した今なら、大人になった今なら、すぐにわかる。
 鎮守の森の奥にあり、神様が住んでいると言われていて、両親が神様のために働いている、それが何を表しているのか。あまりにも簡単な答えだった。きっといろはは、敷地の外にも出してもらえないような箱入り娘だったに違いない。だからお寺の存在さえ知らなかったのだろう。
「さらってくれるって約束、どうするの?」
 だがそうすると、あの約束はどうなるのだろうか。
「あら、私は約束を守るつもりでいるんだけどな。」
「え?」
 いろはは薄く笑みを浮かべながら、思わぬ返答を口にした。いろはの表情はどこか妖しくて、すごく艶っぽい。そう感じたら胸の鼓動が早鐘のようになって抑えが効かなくなってしまった。
「いつかきっと連れて行ってあげる、神様の住む場所……私の家にね。」
 何も言えなくなってしまった比奈は、黙っていろはの言葉の続きを待っているしかできない。
「あなたをさらって連れて帰るために、私はこの町に出てきたんだから。」
 そう言った瞬間、いろはは周囲に誰もいないことをいいことに突然抱きついてきた。
「ねぇ、ひなちゃん……一緒に、来てくれるでしょ?」
 ささやくようなその言葉は、快感を伴う微弱な電流となって、比奈の耳の奥から全身に向けて広がっていく。これはクセになると危ない、そう思いながらも、比奈はいろはの声が与えてくれる快楽に身を委ねてしまう。
 少しその感覚を楽しんでから、初めから用意していた、きっといろはも最初からわかっているであろう答えを、比奈はあえて口にした。
「うん。ずっと……一緒にいようね……。」


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