第三節 誘いの狂歌、帰りて二刀開眼す
−1−
興奮する会場をよそに、霊夢は淡々と試合場から観客席へ戻ってきた。多少ひやりとはさせられたが、あの程度の相手に手こずっているわけにはいかない。並みいる厄介な連中を全て抑えて優勝しなければ、目当ての品は手に入らないのだから。
「よっ、おつかれさん。」
愉快千万と言った感情を全く隠すことなく、ニヤニヤした顔で近づいてきたのは魔理沙だった。
「何よ気持ち悪いわね。」
「いや、マジになった霊夢を久々に見たからな。」
「本気ってほど力使ってないわ。」
少し真面目に妖怪退治をしただけである。何事も適当にやって片付くなら、それが一番なのだ。それが叶わなそうだったから、多少本腰を入れただけのことだった。
「しっかしわからないなぁ。現金以外だったら、一体何が目当てだって言うんだ?」
こういう失礼な奴は何発叩いても許されそうだが、あまり叩くと本物の馬鹿になってしまうかもしれないので、すんでのところでやめておいた。馬鹿の相手をしたばかりで少し疲れているというのに、これ以上馬鹿が増えるのはごめんである。
「……この前、香霖堂で石作りの火鉢を見つけてね。」
「またかっぱらってきたのか。」
「持ってきただけよ。人から物借りて返さないあんたと一緒にしないで。」
言うまでもなく、五十歩百歩である。
「でも何か、えらく底は浅いわ保温性は低いわで、イマイチ使い物にならなかったの。」
「そりゃ本当に火鉢なのか? 香霖のところにそんな普通のアイテムがあるとも思えないが。」
「ええ、私もそう思って調べてもらったのよ。そしたら
――」
火鉢の底にはまるで人の顔のような彫刻が掘られており、さながら仮面のようでもあったという。ちょうど額に当たる部分には何かをはめ込む穴があり、霖之助の持ち物の中にはそこに合うような道具は無いらしい。
「この火鉢を正しく使うと、寒さどころか暑さも怖くなくなるんだって。溶岩の中だって平気らしいわよ?」
「それはすごいな。この前の地底探検の時に持っていきたかったぜ……。」
「で、ちゃんと使うために必要な『石』を輝夜が持ってるらしいのよ。」
「なるほど、それが目当てってわけか……やっと謎が解けたぜ。」
それは輝夜が最近になって集め始めたという、「新たな難題」と彼女自らカテゴライズした宝物の中に含まれている。太陽の力を集め、超エネルギーとして用いることを可能とする、超古代の遺物。
「エイジャの赤石」
――それが、この弾幕麻雀大会の賞品として霊夢が求める宝物の名であった。
機器の簡単なチェックが完了したのだろう、作業員の兎が放送席の方へ手を振ってみせた。程なくして、会場内に鈴仙の案内の声が響きわたる。
『1回戦第2試合の準備が整ったようです。選手の皆さんは卓へついてください。』
先ほどは兎が方々を駆け回って知らせていたが、こちらを利用した方が楽だと気づいたらしい。その目算の通り、殆ど同時に競技場へ四名の人妖が向かっていく。
「咲夜さーん、がんばれーー!!」
元気に溢れた若い女性の声が競技場に向けて発せられる。出場者の一人である紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は、それに答えることなく黙って席についた。別に彼女の対応が冷たいのではなく、競技場内では外の音が聞こえないだけである。
『第二試合は何と言っても、いま名前が上がったこの人、十六夜咲夜選手ですね。』
卓に選手が揃うのを待たず、鈴仙は実況を開始した。徐々にこの仕事に慣れ始めたのか、或いは気が乗ってきたのか。
『そうね。あのワガママ吸血鬼のお守りだけでなく、屋敷の殆ど全ての仕事を一人でこなし、時には異変の解決にも暗躍する……』
永い時間を生きる永琳にしてみれば、あの終わらない夜の異変などつい昨日のことのようである。
『優れた分析能力と判断能力、さらに「切り札」まで持っているのだから、負ける要素はほぼ皆無と言ってもいいわね。』
『切り札……時間を操る能力ですね。あ、この試合は姫様にも解説をお願いしようと思うんですが。』
『そうね……姫、よろしくお願いしますわ。』
『はいどうも蓬莱山です〜。』
姫君と言うにはあまりに軽い登場に、場内から笑いが起こる。
『よし、掴みはバッチリね。』
『ウケ狙ってどうするんですか。』
すかさず永琳のツッコミが入るも、当の輝夜はどこ吹く風である。
『え、えーと……とりあえず姫様、咲夜選手の動き如何によっては解説をお願いしますね。』
身分的にも立場的にも低い位置にいる鈴仙としては、絡み方がよくわからなかったのだろう、一人冷静に実況を進めている。
『さて、他に注目の選手は……』
次に卓についたのは、上下共に緑色を基調とした衣装を纏った、おかっぱ頭の白い髪の少女。背負った長刀を傍らに置き、先に座っていた咲夜に一礼してみせる。
『魂魄妖夢か……彼女はあまり期待出来ないわね。』
『え? 咲夜選手に負けず劣らずの力を持っていそうなんですが……』
『あくまで普通に戦うのならね。でもこれは麻雀の大会なのよ。彼女の能力がどんなものだったか、覚えていないかしら?』
『あー……』
剣術を操る程度の能力。
明らかに麻雀に応用出来る内容ではない。
『頭悪くは無いでしょうけど、こういう駆け引きを要するゲームは苦手な感じもするのよね。』
『そういうところありそうですね……融通利きませんし。』
この大会、麻雀だけが上手くても勝てないが、麻雀が下手ならばやはり勝てないのだ。
『同じぐらい厳しそうなのが彼女……ミスティア・ローレライ。』
続けて鼻歌交じりに卓についたのは、名の通りに雀のような翼を背中に生やした、妖夢に負けず劣らず小柄な少女。その翼や特殊な形状の両耳から見て取れる通り、夜雀と呼ばれる妖怪変化である。
『鳥は頭使うの苦手そうですよね……』
『お店の勘定もたびたび間違えるとか……ルールを覚えてるだけでもよく頑張ってる方だわ。』
けなしているのか誉めているのか、どちらにでも取れる言い方である。
『おまけに彼女の能力が……ねぇ。』
『人間を鳥目にする力……この明るさではどうにもなりませんね。』
『相手は人間が多いから、活用出来たなら勝負の行方も変わったのでしょうけど。』
実況に専念する永琳と鈴仙は気付いていなかった。この言葉の直後、輝夜が兎を呼びつけて、何かを吹き込んでいたことに。
『歌で人を狂わせる能力も持っているから、その使い方によっては多少善戦するかもしれないけど……それよりも、あまりに未知数で気になるのが最後の一人。』
宙を滑るように競技台に現れ、ふわりと席についたのは、山に住む八百万の神の一柱である鍵山雛。深い赤銅色のドレスに身を包んだその周囲には、障気が霧か靄のように広がり浮遊している。これが厄神の力で集めた「厄」であり、雛以外の者が迂闊に触れれば、その身に災いが降り懸かると言う。
『しかし彼女は厄を集めるだけで、別に人を不幸にするわけじゃないみたいですね。あの厄の塊に触れなければ無害みたいですし、むしろ他者の厄を引き受けてくれるんだから、相手が有利になりそうな感じもしますが……』
『確かにそうなのだけれど……』
珍しく歯切れの悪い永琳。鈴仙の言うことに賛同する者は多いだろう。自分にだってそう結論付けたいと思っている部分はある。しかし、何かが引っかかるのだ。
主観的に見れば、自分の不幸は相対的に他者の幸運である。しかし、客観的に見た場合はどうなのか。ある一者の不運の全てが、他者にとって有利に働くものなのか。否、麻雀のような多人数で争う遊戯においては、必ずしもそうとは言い切れないのである。
他者の不運が己にとって幸運として働くこともあれば、我が身にとっても不運として働くこともある。ならば、その不運を代わりに引き受けた時、彼女自身に訪れるはずだった不運はどう変換されるのか。そして、相手は不運を解消することで、本当に幸運を手にすることが出来るのか
――
『配牌が終わったようです。さあ、いよいよ第二試合が始まります!!』
鈴仙の興奮した声で、深い思索から我に返る永琳。自らの行っていたことに、軽い自嘲を覚えてしまった。これからの展開がどうなるのかなどと、考え込んだところで意味などないのだ。
想像を絶する事態が起きるのが、この幻想郷のお約束なのだから。
−2−
親の理牌が遅いと、それだけ子の三人にはじっくり考える余裕が生まれる。もっとも、ゲームの展開が遅れることに苛かされる局面も少なからずあるが。
「えーとぉ……よし、終わり。お待たせ・えぶりばぁでぃ♪」
反省の色は全く見られない謎歌を口ずさみながら、今度は捨て牌の選択に悩み始めるミスティア。
「はい、きえたぁ♪」
すぐさま河に出されたのは北。他家の面々が覚悟したほどは待たされなかった。
東家 ミスティア 1巡目捨牌後
『ミスティア選手、なかなかの好配牌です。』
『下手に鳴かなければ相当期待出来そうね。』
『雀も鳴かずば撃たれまいって?』
輝夜の軽口に、会場から再び笑い声が上がる。主に中年から壮年の男性の笑い声が多かったようだが。
「……ふむ、ミスティアの奴、何でこんな大会に出てるんだろうな?」
あえて聞き流したのだろう、輝夜の発言には一切触れず、話題を一気に切り替える魔理沙。
「ああ、あいつも私と似たようなものみたいね。」
意外にも霊夢がすんなりと提供してきた情報は、魔理沙の予測のいずれとも一致していなかった。本命は「ただお祭り騒ぎに便乗しただけ」だったのだが。
「お宝目当て? あの脳天気鳥頭が?」
「新メニューが何とかって言ってたわよ。」
ミスティアは妖怪でありながら、ヤツメウナギの蒲焼きを売りにした屋台を経営している。あれでなかなか料理の腕は立つようで、人妖問わず客足は非常に多いと言う。メニューには蒲焼き以外に、酒の肴になりそうな軽食から丼飯まで多数揃っており、新メニューの研究には余念がないらしい。
「ふふ……外の世界の料理をね、ちょっと紹介してあげたのよ。」
誰もいなかったはずの背後、それも頭よりも高い位置から、含み笑いの混ざった言葉が聞こえてくる。
「あら、元祖気持ち悪い奴。」
「暖かいご挨拶をありがとう。」
空間に「切れ目」が走り、華美な装飾をまとった人の形をした存在が姿を現す。幻想郷を代表する大妖怪、八雲紫
――全てを見透かしているようで多くをはぐらかす、謎めいたというよりは不気味な印象の強い美女だ。とある新聞記者が付けた通称が「気味の悪い微笑み」、誰もが言い得て妙だと頷いたと言う。
「外の世界の料理って何だ? 鉄屑の姿煮とかか?」
魔理沙の頭の中の外の世界では、非常に歯が強い人類が蔓延っているようだ。
「石焼ビビンパって言うんだけど。」
「変な名前ねぇ。」
「レミリアのスペルカードみたいだな。」
どうやら海の向こうから伝わった料理らしい。海すら見たことのない霊夢や魔理沙にとっては、想像の範疇を遙かに越えている。
「作るのはそんなに難しくないんだけど、用意する容器が問題でね。」
陶器や木製の食器では、調理の過程で問題が発生するらしいのだ。そこで入り用になるのが
――
「丈夫な石製の鉢……か。」
「そう。あいつと戦ったあなたたちならもうわかるわよね?」
石製などと生ぬるいものでは無い。金剛石で造られた、光の帯を乱反射させる恐るべき神宝。
「月人が石焼ビビンパを食べるのに使う食器なのよ、って教えてあげたら、もう張り切っちゃって。」
「あんた最悪ね……」
「おいおい、あんな鳥頭にそんな神宝持たせて平気なのか?」
鳥頭に神がかった力を与えると、厄介極まりない事態が起こる可能性が非常に高い。先日の地底探検で身に染みたばかりである。
「まぁ大丈夫よ、どうせ勝てないし。」
「ますますもって最悪だわ……。」
この麻雀という遊戯はどうにも苦手である。眼下に13枚並んだ直方体を見つめながら、妖夢は深いため息を吐いた。剣術を志す身の上である以上、次手の読み合いは決して不得手ではない。そのため、同様の遊戯である将棋や碁はまだ対応が出来ないでもない。しかしこの麻雀というのは四人で行う遊戯ゆえ、一対一の定石が殆ど役に立たない。四人それぞれが別の思惑を持つため、一対多ともまた違うわけで、それが妖夢の剣術脳を更に混乱させる。
――毎度のこととは言え、無茶な話だわ……。
正直なところ頭脳プレーには自信の無い妖夢が、こんな知略家の集まる中で知的遊戯に挑むことになったのは、言うまでもなく彼女の「主」の指示によるものである。
――「……月のお餅が食べてみたいわ。」
月餅じゃなくてね、と直後に念を押されたので、言葉の額面通りのものを欲しがっているようだった。もちろん月まで餅を取りに行くことは出来ないので、代替品で満足していただくしかない。
月と餅というキーワードで真っ先に思い出したのが、月都万象展でショーが行われていた兎の餅つきだった。月の兎がついた餅が特殊なものとして扱われるのは、きっと兎がついているからではない。月から持ってきた臼と杵が使われているからなのだ。永琳が多く有している特殊な医療器具のように、何か特別な仕掛けが施されているに違いない。
そんなことを考察している折りに天狗が持ってきたのが、この弾幕麻雀大会のチラシだった。優勝商品は永遠亭の中に存在するものを何でも1つ
――まさに千載一遇のチャンスだった。手荒な真似をすることなく、穏便に目的の品物を手に入れることが出来るのだから。
ただ一つの、それでいて最大の問題は、苦手とする麻雀で勝たなければならないことだけだった。
「おつかれのところ悪いけど……」
咲夜の気遣うような声で回想から我に返る妖夢。無意識に再び溜め息が漏れていたようだ。
「……あなたのツモ番よ。」
「ああ、すいません。」
対戦相手に心配されていては世話がない。促されて、妖夢は山から牌を取り寄せる。
西家 妖夢 3巡目
――大丈夫、ツキは向いてる……。
この序盤で絶好のツモ。浮いた七筒に手をかけると、うつむきがちだった視線をぐっと上げて高らかに宣言する。
「リーチです!」
この遊戯を苦手としていようと、相手が知謀に長けた強敵であろうと、妖夢が為すべき事は変わらないのだ。
――幽々子さまの望むままに……!!
それが庭師としての役目であり、妖夢自身の望みなのだから。
−3−
妖夢のリーチで早々にゲームが動き出した第二試合。その「動き」は、競技者たちの予測を遙かに上回る加速を見せることとなる。
「うん、とりあえず安全第一って言うわよね。」
雛はツモってきた八索をそのまま河に出す。その動きに、場内からどよめきが起こった。
『おおっとぉ? 雛選手、あまりにも弱腰な打牌ですが……』
東一局 北家 雛 3巡目捨牌後

『そうね……安全第一って言うなら、上家が捨てている中から落としていけば良いのに。』
絶好の間八索をためらいなくツモ切り。まるで面子の構築に全くこだわりがないかのような打牌だった。もっとも、初心者であれば陥りやすい錯誤ではあるのだが。
『ただのド素人なのか、或いは何か思惑があるのか……真相が気になるところです。』
そうこうしているうち、卓上ではミスティアがツモ牌を手元に引き寄せていた。
東一局 東家 ミスティア 4巡目

「ひーかーりーのはやさであるけ〜♪」
上機嫌で不可思議な歌詞を発しながら、ミスティアは七索を横向きに打牌した。
「リーチ〜♪」
『さぁ、ミスティア選手も追っかけリーチです。』
『しかしまぁ攻め時とは言え、躊躇もせずにあの打牌は強気な話ねぇ……』
通常の麻雀であれば、得点の動きのない一局目ならば、多少の無茶は許されるだろう。しかしこれは弾幕麻雀、放銃は即、敗北に繋がりかねない。
『これで二家がリーチ、続く咲夜選手は苦しい展開に……』
『……そうでもないみたいね。』
『えっ……あ!?』
画面に映し出された咲夜の手牌に、鈴仙だけでなく観客の殆どが息を飲んだ。
東一局 南家 咲夜 4巡目

『咲夜選手もテンパイです!! もっとも二名がリーチ状態である現状ですから、ヤミテンで出上がりを……』
競技場が防音構造になっている以上、鈴仙の分析は咲夜の耳に届いていないはずである。しかし
――
「……それでは面白くないものね。」
――まるで鈴仙に対する反論のような言葉を口にしながら、迷うこと無く西を河に放つ咲夜。その牌の向きは
――
「リーチよ。」
『おおーーーーっと! 何と三家リーチになりましたっ!! 場は大荒れ、言うなれば超追跡モード突入かっ!?』
鈴仙の口調のヒートアップに呼応して、観衆もにわかに沸き上がる。
『どこかで聞いたことある気がするけどね、それ……』
『と、とにかくですよ、これで窮地に立たされたのは雛選手でしょうか。』
『うーん、そうとも言い切れないわね。あなたがさっき言っていたように、リーチしていないならいくらでも逃げようがある。でも他の三人はビンゴを引いた瞬間に……』
『アウト、ですもんね……やっぱりヤミテンの方が良かったと思うんだけどなぁ……。』
実況の立場を忘れたか、平時の口調で鈴仙が呟きを漏らす。よほど自分の見立てに自信があったのだろう。
『でもね、もしもこの極限状態で競り勝つことが出来れば、大きな流れを掴むことになるのよ。』
『流れ、ですか。』
『理論派の人たちからは否定的な意見も多いけどね。まぁゲン担ぎ程度のものよ。』
『でもゲン担ぎであれだけの賭けに出るって……』
『従者っていうのはあのぐらいの度胸が必要なのよ。あなたもよく覚えておきなさい。』
『うぐっ……』
痛いところを突かれたのか、喉に物を詰まらせたかのような低い呻き声を上げて、鈴仙は口を噤んでしまった。
『どちらにしろ、鍵山雛にとって逃げ得な状況になっているのは事実ね。』
ノーテン状態であれば、この局面でテンパイを目指すのは得策とは言えない。特に今回の大会のルールであれば尚更だ。打ち回す価値のあるような好手なら、勝負するのも一興であろうが、雛の現在の手牌はお世辞にも良好とは言えない。敢えて言うならチャンタ系の展開が可能だが、和了はかなり遠いだろう。
「くっ……」
そしてこの時点において危機が最も間近に迫っているのは、三家リーチ成立直後にツモを迫られた妖夢である。早い攻めに出たつもりが、いつの間にか退路を絶たれている。兵聞拙速未睹巧久とは言うが、まさにお粗末な短期決戦で終わりかねなくなっている。それも自分の敗北という最悪のパターンで。
「躊躇っても無駄なんだから、思い切って引きなさいよ。」
咲夜が苦笑混じりに促してくる。確かに彼女の言う通りだ。妖夢がこの牌を引かなければゲームは進まない。負ける未来ばかりが頭を横切っていたが、これが通れば逆に大きなチャンスが到来するのだ。
「そうだそうだ〜♪ 当たって砕け散れ〜♪」
「砕けるのは嫌だなぁ……」
ミスティアの呑気な歌声に弱気の虫が再起しそうになるも、妖夢は思い切って山から牌を取り上げた。
「うっ……!!」
自らの和了り牌では無かったのだろう、妖夢は手元に引き寄せることなく、その牌を恐る恐る河に置く。
「通ってるわね。」
「大はずれ〜♪」
二者の言葉に、大きな溜息で安堵を表出させる妖夢。ツモ牌はど真ん中の五萬
―― 一発直撃でも何も疑問のない最悪の引きだった。
『全選手の手牌が見えている我々は通ることがわかっていましたが……』
『放銃は覚悟したでしょうねぇ。ツイてないのかツイてるのか……。』
続く雛がツモって来たのは八萬。客観的に見れば通る牌であり、安全性が低い牌では無いのだが、雛の手牌には他に切るべきものがいくらでもある。にも関わらず
――
「厄神的にこれはいただけないわねぇ。」
迷うことなく八萬をツモ切り。観客の間に幾度目かのどよめきが起きる。
『雛選手、まったく動きが読めません……! 彼女には他家の当たり牌が見えているとでも言うのか!?』
『少なくとも、通常は感知出来ない「何か」を察知している感じね。』
奇妙な打ち筋を続ける雛と、その異常さにも全く表情を動かさぬ咲夜、対照的に明らかな困惑を隠しきれない妖夢、そして事態の深刻さを理解していないのが明白なミスティア。四者それぞれに思惑はあるのだろうが、いま現在自由に動くことが出来るのは雛だけである。
「とーれとーれぴーちぴーち♪」
ミスティアはお気楽な歌声と共に山へ手を延ばす。ちらりと牌の内容を確認すると、妖夢と同じようにそのまま河へ置く。もっとも、その動きに躊躇いは無かったが。
「当てられるもんなら当ててみやがれぃ♪」
「あらそう、じゃあ遠慮なく。」
咲夜が手牌を綺麗に倒して見せる。ミスティアが捨てたのは九萬
――咲夜の和了牌だった。
「たーらららーららでれれれん♪」
上体を反らして短調のメロディをコミカルに口ずさむミスティア。振り込んだ割にはショックを受けている風でもない。
『ミスティア選手、余裕があります。低めだから別に平気ってことですかね?』
『根本的に気楽だってだけだと思うわ……』
鈴仙の言う通り三面聴で唯一の低めだったが、高めが当たっても大して反応は変わらなかっただろう。現状の深刻さを理解出来ないことに関しては、右に出るものは殆どいないとすら言えるのがこのミスティアという妖怪である。
「裏ドラは……あら、中途半端に乗っちゃったわね。」
東一局 南家 咲夜 和了

ドラ表示牌の下部に隠されていたのは四萬。しかしこれで一翻増えても合計五翻、跳満には届かない。中途半端という表現の意図はそのあたりにあるのだろう。
『咲夜選手これは惜しい、三・六萬の和了なら跳満でした。』
『勝負に「たられば」は無しと言うけど、さすがにこれは悔やまれるわね。』
満貫以上は得点が飛躍的に上昇していくため、一翻の差に泣かされることも少なくない。この弾幕麻雀では直接の点のやり取りはないが、高い役を和了ることがプレッシャーになることに変わりは無いのである。
『ただ、当人はそんなには気にしていないようですね。』
『仕掛け時だと思っていないんでしょうね。恐らくは時間を止めても……』
『いないわね。これと言って時の流れを歪められた形跡は見当たらないから。』
ここに来てやっと特別解説員の出番である。決して駄洒落を言うために座っているわけではないのだ。
『麻雀中に時を操るのは1試合に1回だけってことになってるしね。』
『……え?』
『……はい?』
珍しく鈴仙と永琳が声を揃えて疑問符を浮かべる。大会前のルール説明でそのようなことを言った記憶はない。
『あのメイドには伝えてあるわよ?』
『姫……いつ決めたんですか。』
『さっき。第二試合が始まるちょっと前かな。』
『そういうことは早めに言ってください……』
まさに主催者権限の濫用ここに極まれりである。
『いいじゃないの、その方が面白いし。弾幕の時にはいくら使っても構わないことにしてるから大丈夫よ。』
確かに1回3カウントとは言え、麻雀中に時を止め放題だったらあまりにも有利すぎるだろう。細かい技を重ねれば、ゲームを完全に支配することも可能となるに違いない。
『彼女が時を操る以外に能の無い人間だったら、こんな制限かけないけどね。手先が器用だからイカサマなんかお手のものだろうし、普通に麻雀強そうだし、ハンデとしてはちょうど良いでしょ?』
『ふむ、確かに……』
思い付きで博覧会を開いたりする豪快な人ではあるが、今回はちゃんと考えてのことだったらしい。
『あ、弾幕戦が間もなく始まるようです。』
競技者の席がせり上がって弾幕が展開されるまで、多少とは言え間が空いてしまう。初見こそ物珍しさで誤魔化せるだろうが、回を重ねるごとに新鮮さが失われていくのは明白である。この待ち時間に関しては、装置を用意する上で懸念の声も上がったのだが、輝夜が提示した単純明快かつ容易とは決して言い難い解決策が採用となった。というか押し通された。
姫様曰く、「トークで繋いで。」
そのとき既に実況役を割り当てられていた鈴仙が、難色を示せる限り示したのは言うまでも無い。
実際に蓋を開けてみれば、今のところはきちんと場を繋いでいるのだから、世の中やってみなければわからないとは言ったものである。競技場の方では、ちょうど笙のような音と共に青い灯りが光を放ったところだった。
鳥には鳥の得意分野がある。ミスティアは射撃開始を待たずに上方へ飛び上がっていた。離れすぎれば咲夜の手元が見えなくなり危険と判断したようで、猶予の割には高度をとっていない。
「お気楽な鳥頭とは言え、運動能力は妖怪のそれだものね。」
咲夜は両手に複数本のナイフを握り込み、描くべき軌道を頭の中で組み立てる。適当に投擲しても、ミスティアの素早い動きを捉えることは出来ないだろう。
「とりあえずは牽制……」
どこから取り出したのか、五、六本のナイフが縦列を成し、扇形に複数列放たれた。傍から見れば、ちょうど咲夜を軸として扇の骨が描かれている形になっている。
「うひゃあお♪」
驚きを口にしながらも、すいすいとナイフの軌道の隙間へ身を翻すミスティア。もちろんこれは布石に過ぎないので、当たってもらっても面白くない。
「もう少し動いてもらわうわよ。」
ミスティアの位置を基準として、同様の軌道でナイフを投げ続ける咲夜。
『咲夜選手の投擲は終わらない! しかし一体どこからあれだけの数のナイフを出しているのでしょう?』
『たぶん回収しているわね、時間を止めて。』
『え……停止中の時間のことがわかるんですか?』
『通り過ぎたナイフをよく見ててご覧なさい。』
ミスティアに命中することなく通過していった無数のナイフが、次の瞬間にはその姿を消している。
『これは……!?』
『私たちの目には消えているように見えるけど、恐らくは「回収」されているのよ。そしてそれを再び投げている。』
『だいたいそんなところでしょうね。かなり細かく時に干渉しているのは確かみたいよ。』
輝夜のお墨付きがあるところからも、永琳の見積もりはかなり信頼性が高そうだ。
『なるほど……ですが、だったら何故その回収した位置から投擲しないんでしょうか?』
『まぁ、遊び心でしょうねぇ。その気になれば、目と鼻の先に回避不能なほどの弾を放ってから時を動かせばいいのだから。』
『命名決闘の規則にもあるものね。「意味の無い攻撃はしてはいけない。意味がそのまま力となる。」だっけ?』
里に住む研究者、稗田阿求が記した『幻想郷縁起』。そこに資料として取り上げられている『命名決闘規則案』に、そのような記述があったとされている。「当てる気の無い花火のようなもの」と揶揄されることすらある弾幕の撃ち合いは、妖怪と人間が対等な勝負を楽しむためのルールに基づくものなのだ。
そんな命名決闘の花と言えば当然
――
「さて、あまり遊んでるとお嬢様に怒られるわね……せめて1ボムでも潰させてもらうわ。」
エプロンのポケットから、咲夜は一枚の札を取り出した。この状況で現れたそれは、言うまでもなくスペルカード。
「収縮する時間があなたを縛り付ける……『デフレーションワールド』!!」
カードを持った手を大きく横に凪ぐと、咲夜の周囲にナイフが浮かべられる。それらが次の瞬間に方々に散っていくと共に、逆の手からミスティア目掛けて無数のナイフが連射されていく。
「おおう狙われてる!!タゲとったどー♪」
ぼけっと突っ立っていれば、あっさりと被弾して敗退決定である。大きくばら撒かれた牽制のナイフに注意しながら、ミスティアは自らに放たれるナイフを右へ左へこまめに避けていく。
「……捉えた。」
咲夜は腰にぶら下げた懐中時計を握り締めると、その文字盤に目を落とす。一呼吸おいて、咲夜がミスティアに鋭い視線を向けた次の瞬間。
「ふぎゃっ!?」
それはまさに目を疑わずにはいられぬ光景だった。声にならぬ悲鳴を上げたミスティアを中心に、弾幕戦闘空間全体に無数のナイフが突如として出現したのだ。
『こ、これはすごい!! 一体どんなトリックを使ったのでしょうか!?』
『時間の収縮……何て荒技を。』
『あの付近の空間だけ、過去から現在、そして未来がごちゃ混ぜになったのよ。いきなり出てきたナイフは、本来だったら現在に存在しないものだわ。』
よくよく見れば、それぞれのナイフが今までに通ってきた軌道上や、これから通るであろう道筋に、無数のナイフが出現している。まさに時を操る咲夜にしか出来ない離れ技だ。
「ちょ、ちょっと待って〜!」
さすがのお気楽ミスティアも、これには度肝を抜かれたようだった。時間を急激に収縮させた影響か、今は動きを止めているナイフの大群。しかし、それらが一斉に動き出せば回避が出来ぬ状態にまで、ミスティアは追い込まれていた。
「す、スペルスペル……」
慌ててポケットの中を探り出すミスティア。程なくしてナイフが震え出す。時が元の流れを取り戻そうとしているのだろう。
「わわわわっ!? えと、えっと……あった!! 声符『梟の夜鳴声』っ!!」
無数のナイフが一斉にミスティアに襲い掛かったのと、スペルカードの宣言が行われたのはほぼ同時。普段の脳天気な鼻歌とは打って変わった甲高い音波が発せられ、その波が楔に似た形状の気弾となって周囲に広がっていく。本来ならば幾重にも折り重なった音の波が弾幕となって襲い掛かるスペルであるが、現在ミスティアは守備側であるため、降り注ぐナイフを蹴散らしただけに留まってしまう。
「とりあえず予定通り……か。ちょっと遊びが過ぎたかしら?」
次の一波に移ることなく、咲夜はナイフを放つ手を止めた。程なくして、射撃終了を知らせる合図の音声が鳴り響く。
『おっと咲夜選手、時間切れを悟っていたようです。』
『制限時間の計算方法についてはチラシに書いただけだったんだけど……まさかきちんと読む人がいるとは思わなかったわ。』
悠々と席に戻る咲夜と、多少息を切らせているミスティア。ゲームがはっきりと動き出したことは明白だった。
『さぁ、四者残留のまま次局を迎えます。』
『十六夜咲夜の勝ち抜けは決定的と見えるわね。』
鈴仙の実況に合わせて永琳が淡々と述べるその脇で、輝夜が先程と同じように兎に何かを言伝していることは、誰の目にも入っていなかった。
−4−
四名揃っての東二局。咲夜の大技でミスティアのスペルカードが一枚切られ、また攻撃側だった咲夜もスペルカードを一枚消費、手札だけで見れば二名が無傷の状態と言える。しかし立ち回りを誤ったり虚を付かれたりすれば、防御の間もなく敗北を喫することも珍しくない。それが命名決闘の恐ろしいところだ。余力を残したままの脱落、それが現実に起こり得るということは、第一試合でレティが示した通りである。
『さて、それぞれの配牌ですが……』
東二局 東家 咲夜 配牌
東二局 南家 妖夢 配牌
東二局 北家 ミスティア 配牌

『この局もなかなかの好配牌揃いね、一名を除いて。』
東二局 西家 雛 配牌

『雛選手はどうも引きが良くありませんね……さすがは厄神と言ったところでしょうか。』
『厄神……厄……ああ、厄ってことは……』
鈴仙としては軽口のつもりだったのだろうが、永琳はその一言で何かに気付いたらしい。
『……ふむ、なるほど。』
『師匠?』
『ねぇウドンゲ……麻雀には安全牌って概念があるじゃない。』
『え……はい。』
突然の質問。これだけでは何を言わんとしているかわからないので、鈴仙は相槌を打つだけに留める。
『何をもって安全とするのかしら?』
『それは……放銃の可能性が無いか、そうでなくとも限りなく低い牌ではないでしょうか。』
『そうよね。じゃあ視点を変えてみましょうか。』
二人が話している間も、当然だが卓上の進行は止まらない。咲夜の北切りから始まり、妖夢は一筒をツモ切り、雛もツモ切りで捨牌は発。ミスティアは四索ツモの東切りで広い受けを確保した。
『自分が放銃する可能性の無い牌、厳密に言うならそれは他家の手を進めることの無い牌……それって他家の視点で見たらどうなるのかしら?』
『どうなるって……あれ、それって……』
鈴仙と同調するように、観客の一部が息を飲んだ。ごく一部だが「既に気付いている」観客も存在していた。それは永琳と同時か、或いは永琳よりも早く気付いていたのかもしれない。この麻雀というゲームに限っての話ならば、月の頭脳と謡われた永琳を上回る実践勘を持つものがいても、何ら不思議はないのだから。
『鍵山雛の手牌は異常だわ。他の三人の好配牌など足下にも及ばぬほどにね。』
それは全競技者の手牌が見えている観戦者だからこそ気付き得る、あまりに強力な場の支配。
『彼女の手牌は全て、他家の不要牌なのよ。』
にわかに観客席にざわめきが広がる。麻雀に不慣れな者では、そこまで気付くのは難しかっただろう。その力の強大さに言葉を失ったのか、鈴仙は相槌すら打てずにいた。そんなことはお構いなしに永琳は解説を続ける。
『恐らくは彼女本来の能力が働いているんでしょうね……麻雀において手が進まない以上の不幸は無いもの。』
この遊戯において最も大きな不利益は点数が減ること、そして増えないこと。確かに長期的に見れば、前者の方が被害は大きい。しかし点数の減少は早めの打ち筋変更や場の分析によって、ある程度の回避が可能である。つまり克服が困難なのは後者の要素、つまり「引きの悪さ」の方である。どれだけ精密な麻雀を打てていようとも、ツモに難があれば攻勢に転ずることは難しい。得点が増えない状況が続けば、他家ツモ和了りの影響や事故的な放銃の影響で徐々にジリ貧になっていってしまう。特にこういった一発勝負のトーナメント戦においては、長期的な戦略は意味をなさない。ゆえにこの場において「最も効率良く厄を回収する方法」は、不要牌の回収となるのだろう。
『……で、ですが、鳴きでツモ順が変われば無効化されるのでは?』
ようやくショックから立ち直ったのか、鈴仙が反論を口にする。
『そうねぇ、でもそうすると完全なツモの食い違いが起きるから、少なくとも鍵山雛に不利な状況にはならないわね。』
『あ、それもそうですね……』
『そもそもに、いま私たちは全員の手牌が見えている前提で話をしているでしょう?』
『あ……』
各個人の主観で見れば、たまたまツイている状況が来ているに過ぎないのだ。つまり
――
『あんな配牌が来たら、無理に鳴いてまで急ぐかしら?』
不要牌は雛の手元に集まり、山から取り除かれ行く。鳴かずに手を進めれば自然と面前で聴牌を迎えることになる。ツモは食い違うことなく進んでいき
――
『いずれは他者の当たり牌を引き当てる。』
リーチ状態ならば回避は不能。ヤミであっても放銃を避けて打ち回しに走れば、本来の道筋から外れてしまうため和了りは困難となる。
『自分の和了牌を引く可能性もあるのでは?』
『これが力の弱い妖怪の能力ならそれもあり得るけど……厄神は「神」なのよ。彼女がこの能力で、自らに不幸をもたらすとは考えにくい。』
他者の厄を回収し、なおかつ自分に不利益を及ぼさぬ厄神の神徳。それが麻雀においては、絶対的な回避能力をもたらす力となって働くのだ。
『これはほぼ決まりかしら。能力をフル活用出来ているのが一人だけとは言え、十六夜咲夜と他家の麻雀の実力は段違い。さらに彼女は荒れ場に掻き乱されるタイプでも無い……大勢は決したでしょう。』
長い解説を終え、永琳が小さな溜息を吐いたその時だった。
『あら、まだわからないわよ?』
しばらく口を閉じていた輝夜の発した言葉が、会場内に妙な高揚感を伴って響き渡る。
『ど、どういうことですか?』
根拠を示すことなく掲げられた反論に、すぐさま反応する鈴仙。実況係としては、これを拾わない手はないのだ。
『例えば……予期せぬトラブルで環境が変わっちゃうとかね。』
『……姫……まさか?』
『あくまで「もしかしたら」の話よ。仮定よ仮定……ふふっ。』
卓の展開は更に進んでおり、既に5巡目に入っていた。未だに聴牌者はいないようで、場は静けさを保っている。いくら雛の能力でツモが偏っているとは言え、噛み合わない時はとことん噛み合わないものである。
『おっと咲夜選手、これは良いところを引いてきたか?』
東二局 東家 咲夜 5巡目

『五索切り……よね。他の選択肢は考えにくいし。』
永琳の言葉が終わる前に、咲夜は即座に五索を河に出した。
東二局 東家 咲夜 5巡目捨牌後

『これで一向聴、それも待ち受けが非常に広い!!』
『すごいわね……』
『なかなか無いですよね、ここまで理想的な一向聴は。』
『ああ……そっちもすごいけど。』
そっちも、と言うことは、永琳が感心したのは咲夜の受けの広さでは無いということか。
『さすがに12種類も許容牌があると、鍵山雛の回避しきれない展開も有り得るようだけど……それでも最良のパターンが来た場合には、やはり彼女の手元に危険牌は発生しない。』
東二局 西家 雛 5巡目ツモ前

雛に放銃の可能性が発生するのは、咲夜が三・六・九萬を引いて五・八筒の延べ単騎に取るか、六・九筒を引いて五・八萬の延べ単騎に取った場合のみ。いずれも残り牌数を見て取り得る選択肢ではあるが、高めを意識するなら前者の選択は無い。確率的に見るならば、未だに雛の安全は概ね保障されている。
『周囲がその事実に気付かないというのが、また恐ろしいですね……。』
『2回戦以降は話が変わってくるけどね。』
まるで雛の勝ち残りが既に決まっているかのような物言いである。確かに放銃の危険性が無い以上、この大会のルールにおいては勝ち残る可能性が極めて高いと言えるだろう。
『さて、妖夢選手は九索をツモ切りですね。そして雛選手は二連続で引いてきた西をまたもツモ切りで実質の槓子崩し……まぁ、彼女の能力の正体がわかった今となっては、何ら不思議な選択ではありませんが……。』
オタ風ならまだしも、雛にとっては現在の自風牌である。まともに考えれば勿体無いと言わざるを得ない。
「うぇるか〜むとぅ〜うぇるか〜むとぅ〜うぇるか〜むとぅ〜まいは〜と♪」
雛の捨て牌を他家が見送ったのを確認し、ミスティアは謎歌と共に山へ手を伸ばした。
東二局 北家 ミスティア 5巡目

ツモ牌の内容を見るや、その顔に明らかな歓喜の色が浮かぶ。四索を横向きで河に放ると、ミスティアはすかさずリーチ棒を手に取った。
「まちにま〜ってたやっとでた♪ リーチ……」
前触れもなく訪れたその「トラブル」は、ミスティアのリーチ宣言とほぼ同時のことだった。
「えっ!?」
「なになにっ!?」
「いやぁ、こわいよぉ!!」
それまで昼間の田畑のように明るかった会場が、突如として暗がりに沈んだ。会場内の照明が一瞬で全て失われたのである。無音の出来事であったが、その急激な変化に衝撃音の幻聴を受けた者もいたかもしれない。落ち着いて視界を確認すれば、暗闇に覆われるというほどの明度消失ではなく、隣りの隣りのそのまた隣りに居る者の表情もぼんやりと確認出来る程度だった。
しかし今までの状態に比べれば、かなり暗くなってしまったのは間違いない。この迷いの竹林には背の高い竹がこれでもかというほど密集しているため、人工の明かりが無ければ昼間であっても相当暗いのである。この場所も開けているとは言え、上空はしなる竹に覆われて日の光がかなり遮られている。更にちょうど雲が出て太陽が隠れており、明度の低下に拍車をかけていた。
「UPSの確認を急いで。実況関係とスクリーンは問題ないだろうから、復旧は観客席を優先でね。」
急なハプニングにも関わらず、永琳は的確に間近の兎に指示を出していた。それと同時に、現状の整理を脳裏で進める。
――妙だわ、UPSは重要な装置全てに設置しているはず。特に競技スペースは厳重に確認をしたはずだし、ブレーカーダウンをするような配電構造にはしていないはず。そうなると考えられるのは……。
ちらりと輝夜の方を見ると、何食わぬ顔でスクリーンを眺めていた。永琳の視線に気付くと、満面の笑みで舌を出して見せる。
――まったく……やんごとなき御方の遊び心には参ってしまうわね……。
恐らくこれで状況は大きく変わる。この会場の状態の中にあって、「彼女」が活性化しないはずがないのだ。
『えー、ご迷惑をおかけしております。照明の復旧までしばらくお待ちください。』
無停電電源装置のおかげで、実況の装置は異常無く使えていた。マイクが生きていることを確認して、鈴仙は会場内に案内のアナウンスを流す。
『ん〜、待たなくていいんじゃない? 別に見えないわけじゃないし。』
そんな試合の中断を宣言した鈴仙の声に却下の意志を示したのは、他でもない大会実行委員長だった。
『へ?』
『そうですね、大会の開催時間にはタイムリミットもありますし……復旧作業を行いつつ、試合は続行しましょう。』
永琳の提案は、好意的な歓声をもって支持を受けた。スクリーンも生きていたので、観戦者にとってもこれと言った不都合はなかったのである。審判員の兎に続行の指示が伝達され、リーチ棒を持ったまま動きを止めていたミスティアにも「試合続行」の採決が伝わる。
「……それって、チャンスってやつじゃん?」
珍しく、歌を混ぜずに呟くミスティア。まさに彼女にとっては「棚から牡丹餅」だったのだ。この暗闇状態も恐らくは解消を待ってから試合再開だろうと思っていたから、気楽なお遊び感覚を維持するつもりでいた。しかし
――
――本気で、やっちゃおうか。
ミスティアの表情から、それまでの穏やかさが突如として消え失せる。口角を好戦的に上げ、鋭い瞳で他家を一瞥したミスティアは、リーチ棒を握ったままの手を高く振り上げた。
――この暗度は……ギリギリセーフっ!!
屋台の女将の顔から、夜道で人を惑わし攫う狩人の顔へ。
リーチ棒が勢い良く叩き付けられると共に、力の「波」が卓の周囲に広がっていった。それは妖気を感知することが出来る者だけに見える能力の「余波」。ミスティアの妖怪としての能力が使用された証だった。
「……くっ!?」
妖夢が動揺を口にし、咲夜もまた顔を歪めて舌を鳴らす。スクリーン上では特に異常は現れていないが、そこには確かな「状況の変化」が存在していた。
「改めて……リーチだよ。」
先ほどまでとは打って変わって、落ち着き払ったリーチ宣言。それはミスティアの心の余裕の表れか。
「……失礼。」
前手までは素早くツモってほぼノータイムで捨て牌を行っていた咲夜が、謝罪の言葉を口にして長考に入る。他家の河を目を細めて見回した後、上家の河を凝視したまま動きを止める。
『おっと、咲夜選手の様子が妙ですね。』
まるで何かを探しているかのように、咲夜は同じ挙動をもう一度繰り返している。
『ミスティア・ローレライの能力だわ。』
『と言いますと?』
『状況が変わってしまったの。もうさっきまでの無力な彼女じゃないわ。』
三度ほど同じ動きをした後、山からツモ牌を取ろうと手を伸ばす咲夜。しかしその手は何度も宙を切り、ツモ牌を掴むのに手間取ってしまっている。
『何でしょう、まるで視力を失っているかのような……』
『失ってるのよ。』
『え……あっ、暗がり……!』
鈴仙もすぐに気付いたようだった。ミスティアには人間を鳥目にする能力がある。それはつまり暗所での視力を極端に低下させる能力であり、今この状況で使用したならば
――
『神である鍵山雛に通じたかはわからないけど、純粋な人間である十六夜咲夜と、半分は人間の魂魄妖夢……この二人は間違いなくミスティア・ローレライの術中に嵌っているわ。』
『つまり彼女たちの視覚的情報が、かなり制限されてしまったわけですか。』
『夜盲の程度にもよるけど、妖力によるものなのだから、きっと相当重度の症状を付加されている。ツモ牌の位置を手探りで確認しないといけないほどだから、きっと他家の河は全く見えていないでしょうね。』
そこに存在する「何らかの物体」として認識出来ていても、その内容の判別は不可能。聴牌者がいる状況では
――観客の目線でのみ判明している事実を加えるなら、聴牌率が激増しているこの荒れ場においては
――、それはあまりにも致命的なハンデとなる。
「……どうしたものかしらね。」
振り返って、6巡目の咲夜のツモ。
東二局 東家 咲夜 6巡目

どうせ見えないのなら無計画に勝負に出るというのも一つの考え方だが、幸いにも人間には記憶という機能が備わっている。咲夜は脳裏にミスティアの河を思い浮かべようと試みた。
――確か漢字の牌が4枚。うち一文字……字牌が3枚だったかしら……黒字以外の牌も混ざっていたわね。あと1枚は萬子の下の方……一萬か二萬か……。そしてリーチ牌は……四索。
問題ないと判断したか、ツモってきた七索を河へ出す咲夜。ミスティアの反応が無いところを見ると、見積もりに誤りは無かったようだ。
『きちんと河に注意を払っているなら、少なくともこの局は有利に事を運べるわね。』
『それにしたって大した記憶力だと思いますよ……私ではあそこまではっきりとは思い出せ無さそうです。』
通常ならば、必要に応じて他家の河を確認すれば良いだけのこと。もちろん、鳴きの要不要の判断をするためには、都度確認では手遅れになることも無いとは言えない。それでも定期的な確認を怠らなければ良いだけであり、記憶することを前提にチェックする必要は殆ど無いと言えよう。
「……うぅ……」
そしてその「通常」の対応をしたために、窮地に追い込まれた半人前がここに一人。まさかこんな事態になるとは夢にも思っていなかったため、ミスティアの河が全く思い出せない妖夢だった。そもそもに副露も無い序盤の長閑な状況で、他家の捨て牌にそんな強い注意を払うものだろうか。
「とりあえずツモったら?」
「あ、すいません……」
咲夜に促されて、妖夢は山に手を伸ばす。視界が不明瞭なので、誤って他の牌をひっくり返さないよう慎重に動かねばならなかった。
東二局 南家 妖夢 6巡目

打一萬で聴牌。しかし確定役が無いため、リーチせねば後付け頼みの一索しか和了牌が無い。何よりも
――
――この一萬、通るのか……?
河が見えている者にしてみれば、その答えは火を見るよりも明らかだった。ミスティアは2巡目に一萬を切っているのである。勝負に出るなら一萬切りでリーチ、これで決まりだろう。一索で和了れば四翻確定、ツモや一発に加えて裏ドラの乗り方次第では跳満まで有り得る。しかし、妖夢はミスティアの河の内容を全く認識できていなかった。ゆえに決断を躊躇ってしまう。
――「めざせ、めざせ、がんばれいっとーしょー♪」
そんな迷う妖夢の脳裏に突如として響き渡ったのは、どこかで聴いた記憶のある陽気な歌声だった。
「目指せ……一等賞?」
ぽつりと呟く妖夢に、咲夜が怪訝そうな目を向けた。そんな周囲の反応にも気付かず、妖夢は思考を巡らせ始める。
――そうだ、一等賞……優勝……優勝して幽々子さまの願いを叶えなければ……。
そのためには、この試合に勝たねば。無難な待ちに逃げて豆鉄砲で稼いでいても仕方ない、もっと、もっと伸ばさないと。
――「すすめ、すすめ、まけるなよ、ハッ♪」
再び響く歌声。まさに言う通りだ、負けないためには突き進むしかない。
――南が二枚……あと一枚で風牌か。一索ツモでイーペー確定……裏ドラ表示が東なら跳満、いや倍満じゃないか……!
妖夢は二つの事象に気付いていなかった。一つは自分の思考が狂い始めていること、そしてもう一つ
――
『恐らく、視界を封じられた彼女には「見えていない」んでしょうね。』
『私たちからはこんなにはっきりと見えているのに……』
そう、スクリーンには明瞭に映し出されていたのだ。
高らかに歌う夜雀
――人を惑わす妖の姿が。
「ローン♪」
知らぬうちに混濁していた妖夢の意識が、ミスティアの宣言によって正常な状態に引き戻される。
「えっ……!?」
自分が牌を切っていた事実に気付かなかった。河に置かれたその牌は
――三萬。
「メンタンピン一発ドラドラドラ……」
東二局 北家 ミスティア 和了

「ようこそ裏ドラ〜で倍満っ♪」
「ぐあっ……」
せっかくの辺三萬が入ったのを崩してまで、なぜ自分はあのような打牌をしたのか。勝負に出た方が良いのか否かを悩んでいたところまでは覚えているのだが、どうも記憶がはっきりとしない。せり上がる椅子に座ったまま、腕を組んで考え込む妖夢。
「いい歌だったでしょ?」
対面からの呼びかけ。それは確かに聞いたことのある声だが、このような声色だっただろうか。顔を上げればそこには、同様にせり上がる椅子に腰掛けたミスティアの姿。
「いい……歌?」
主である幽々子さまが八目鰻の蒲焼を気に入っているため、妖夢もよく同行してミスティアの屋台を訪れている。しかし、こんなミスティアを見たことは一度として無かった。一見すると接客時と同様の明るい笑顔だが、放たれる妖気はあまりにも敵対的。
「闇の中で光を見失った者は、私の歌声には抗えない……例え半人半霊だとしてもね。」
「……ああ、そう言えばそうだったな。」
一度も見たことがない
――それは間違いだった。忘れていただけなのだ、屋台の女将としてのミスティアを見続けてきたせいで。
花の異変の折の邂逅、あの時のミスティアは開花に浮かれて精細を欠いていた。
ミスティアと初めて出会った月の異常な夜、あの時は幽々子さまが同行してくださっていた。
つまり、妖夢にとって「初めて」なのは
――
――本気で「狩り」に来ているこいつと、私一人で対峙することか……!!
−5−
精神修養のために目を閉じて刀を振るうと言うのなら、経験が無いわけではない。だが、ここまで強力な視界抑制を受けたままでの弾幕回避と言うのは、そうそう発生し得ない状況だった。移動範囲を制限する形に弾幕を展開するのは基本的技巧の一つだが、その布陣が見えるならば対処のしようもある。しかし、こんな視界の遮られた状態では、咄嗟の対応に遅れが出るのは否めないだろう。視覚というのは失われて初めて、その重要性の高さが認識される要素なのである。
「少しは見えるようになってきてるでしょ?」
「……少しは、ね。」
徐々にその妖力の影響が薄れてきたのか、ミスティアの言う通り、視野は時間と共に広がってきている。恐らくは和了った時点で能力の展開を一度止めたのだろう。椅子がせり上がっている最中にミスティアの顔が見えたのも、そのためだと考えられる。
「あまり鳥目にし続けると、まれに目が慣れちゃう人がいるんだよ。だから適度にゆるめるわけ。」
上空でそんなことを語るミスティアは、普段からは考えられないほどに理知的な雰囲気を放っていた。第一試合の氷精もそうだったが、この会場では知性に欠ける者がありえない変貌を遂げるとでも言うのか。
――いや、違うな……。
やはりこの変貌にも推定される原因があるのだ。それも急性的な突然変異事象ではなく、決して少なくない時間で積み上げられてきた確かな要因が。
以前のミスティアは、無軌道にふらふらと彷徨い、夜道で人を見つけては鳥目にしたり歌で惑わせて楽しむだけの存在だった。異変を解決しようとする妖夢たちと出会ったのも、そんな無軌道な生活の最中である。ある程度の強い力は持っていても、それを効果的に使うことを知らない愚かな存在。
しかし彼女はいつからか、屋台の女将として多くの人妖を相手に商売をするようになった。活発なコミュニケーションは、その人と成りに少なからぬ影響を与える。厳密にはミスティアは人ではないが、精神活動を有している以上、同様の事象が発生していても疑問は無い。まして商売ともなれば、頭を使わずに行うことは非常に困難だ。
俗に「妖怪は成長しない」と言われるが、或る見方によってはそれは間違いである。妖怪だって「変わる」のだ。
以前まで頭を使うことを知らなかった者が、問題解決のために知恵を絞るようになったりもする。ミスティアは客を屋台に呼び込むために、自分の視覚阻害能力を活用することを覚えた。八目鰻の仕入れが出来ず材料を誤魔化したい時には、歌で心を惑わす能力を使えば良いと気付いた。
商売のために知恵を使って来たミスティア・ローレライ。屋台経営に夢中だった彼女は、その「知恵を使うこと」を実戦で生かす機会を持たなかった。
つまりこれが、変化を遂げたミスティアの初めての「狩り」だったのだ。
弾幕戦開始を告げる音が鳴り響き、妖夢は楼観剣の柄に手をかけた。妖夢はその剣閃によって、弾幕の構成要素をある程度切り払うことが出来る。刀への命中を被弾と扱われる恐れもあったのだが、あらかじめ審判に確認を取ったところ、無事に回避の一環として認められたので、心おきなく使用出来ることが保障された。
「目が見えにくい状態で、ちゃんと使えるのそれ?」
「余計な心配よ。ほら、さっさと始めて。」
制限時間を無駄遣いしてくれるのは大歓迎だが、あまり間を空けられると集中力を削がれてしまいかねない。ミスティアは妖夢の要求に答える代わりににやりと笑みを浮かべ、激しく羽ばたき始めた。
「ダイダイダイダイ大増量だ〜〜だだっだ♪」
羽根の動きに合わせてミスティアの周囲に緑色の光球が次々と発生していく。その身を中心に螺旋を描くように増加を繰り返し、ミスティアの姿を覆い隠すほどに増幅したところで、ようやく展開が止まった。
「さぁて、避けきれるかな?」
ミスティアが一際大きく羽ばたくと、全ての光球が放射状に移動を開始した。その速度は決して低くは無く、加えて、弾列と弾列の隙間は非常に狭い。軌道を読むのが少しでも遅れれば被弾は免れ得なさそうだ。もっとも、見切りの精密さが重要とされる抜刀術を身に着けている妖夢にしてみれば、この程度は難解なうちに入らない。
「……くっ。」
ただし、それはあくまで本調子であればの話だ。現在の妖夢は視覚に異常をきたしている。遠方に存在する物体の姿を正しく結べないため、ある程度の接近を待たなければ、正しい弾道を認識することが出来ないのだ。
「この程度は……!」
それでも危険というほどの不安定な回避にならないのは、日々の修行の賜物であろう。いざ隙間に入ってみれば、続く光球は一列に続いているだけ。黙って通り過ぎるのを待てば良いまで。
「ほらほら、休んでる暇は無いよ〜!」
射角を変えるべく滑空して移動した後、続けて同様の弾幕を展開するミスティア。一つ一つは単純な放射状の弾列だが、複数が折り重なることで、難解な構造を描くこととなる。見切る力の及ばぬ者であれば、視覚が正常であっても回避に失敗する可能性は十分にあり得そうだ。
『ミスティア選手、かなり派手にばら撒きますね。』
『あれだけ和了り翻数が高ければ、避けねばならない弾の数は飛躍的に跳ね上がっているもの。』
強引な力押しによる短期決戦を防止するため、弾幕の展開には細かい規定が設けられている。その一つが展開弾数の制限だ。防御側が決められた弾数を「避けきった」と判断された場合、時間が余っていても弾幕の展開は終了となる。和了り点数は直接は勝負に関係しないが、点数に比例して許容される弾数は増えていくため、安い和了りで大技を放ってもすぐに弾幕フェイズは中断されてしまう。逆に高い和了りならば心おきなく大量の弾をばら撒くことが出来るわけだ。
『まぁ、彼女がルールをきちんと読んだかは怪しいけどね。』
恐らくはテンションが上がるままに攻撃しているだけであろうが、結果として妖夢の集中力を順調に削いでいるわけだから、細かいことは大した問題でもなかった。
「この単純な軌道なら、いくら撃たれたって……」
「そうはイカの問屋街っ♪」
更に位置を変えたミスティアは、右手を妖夢の方へ強く突き出した。その掌から小雀を模した気弾が次々と射出される。何故か精密性に欠ける連射であるため、妖夢に直撃する角度で飛んできたのはごく少数。しかし直前に放たれた弾列が未だに妖夢を取り囲んでいるため、身動きは殆ど取れないも同然だ。
「これ以上は避けられないか……だったら!!」
切れぬものは殆ど無いと謳われる長刀、楼観剣
――その刃は実体の曖昧な気の塊であっても例外なく両断する。さすがに魔理沙の高出力魔砲や霊夢の巨大封印球などを咄嗟には切ることは出来ないが、この程度の気弾なら難なく処理することが可能だ。更に純粋な霊体が相手となれば白楼剣の出番となるが、見たところそこまで難解な存在位相を持ってはいなさそうである。
「まだ大したことは……えっ!?」
全ての危険な気弾を切り払い、難を逃れたと確信していた妖夢だったが、全ての気弾には「仕掛け」が施されていた。連射が曖昧な軌道で放たれた理由がそこにある。
「残留弾……っ?」
小雀たちが通り過ぎた後には、妖夢の身の丈ほどの光球が散りばめられていた。程なくして、全ての光球がそれぞれ思い思いの方角へ動き始める。ある光球は妖夢に命中する角度で、またある光球は妖夢の移動を制限する角度に、さらに他の光球はあらぬ方向へ。まさに無軌道としか表現のしようのないその動きに、妖夢は刀を抜くことも出来ずに際どい回避を強いられ続ける。
「ありゃー、それでも避けきっちゃうんだ。」
光球が晴れた後、ノータッチの妖夢の姿がそこに残る。肩が少し上下しているが、披露しているというほどでは無いようだ。
「こんなもんだったら、時間切れまで余裕ね。」
「そりゃそうでしょ。だって……」
ミスティアはポケットから紙片を取り出す。スペルカードだ。
「そろそろ目、慣れてきたでしょ?」
「なに……?」
目が慣れてきた
――その目的語は何か。言われてみれば、徐々に光球を認知するタイミングが早くなって来ていたような気がする。それはつまり、鳥目の状態が解消されたということであり、正常な状態に体が慣れてきたということでもある。だとしたら、ミスティアの次の一手は
――
「もう一度、闇に沈んでもらうよ……『ブラインドナイトバード』!!」
スペルカードの宣言と共に、ミスティアから「力の波」が放射される。まるで日の当たらぬ洞穴にでも引き込まれたかのように、妖夢の視界が一気に闇に閉ざされた。手が届く程度の範囲から先は、暗闇に塗り潰されて何も見えない。
「これは……さっきの比じゃない……!?」
「明るいところからいきなり暗くなると、余計に見えにくいんだよね? 人間って。」
あらぬ方向から、ミスティアの返答が聞こえてくる。恐らくは気配を殺して移動しているのだろう。弾幕の到達を警戒せねばならない以上、ミスティアの位置を探っている余裕は無い。
「……来た……!」
先ほどよりも更にサイズの小さい、羽根を広げた小鳥の如き気弾。数は多いが一直線にこちらに向けられているので、回避は非常に容易だ。しかし、それに混ざって放たれているのが
――
「う……っ。」
同程度の大きさの淡い翡翠色の光球。それも無数にばら撒かれている。これだけの弾を無軌道に放射するには、相当の妖力の消耗を強いられるはずだ。ミスティアは間違いなく、勝負を付けに来ている。妖夢は豪雨のように降り注ぐ光球を引きつけては切り払い、処理しきれないものは身をかわして避けていく。しかし留まることを知らない弾幕の展開に、徐々にその集中力は削られていく。
「……まずい……っ」
高速で迫る光球の影に、別の光球が隠れていた。かろうじてこれを切り払ったとしても、それに続く小鳥を避ける余裕がなくなってしまうかもしれない。
――止むを得ないか……!!
対処が遅れてスペル未使用での敗退となってしまえば元も子も無い。妖夢は素早い動きでスペルカードを取り出し宙に放ち、空いている左手で白楼剣の柄を握った。
「人符『現世斬』!!」
一対の刃が振り下ろされ、その剣閃が力の波と化して空を切り裂いた。その余波は目前の空間に留まらず、遥か遠方に渡って光球を消し飛ばしていく。二百由旬を一閃にて薙ぎ払うと言われる魂魄の剣技、先代には遠く及ばぬとは言え、着実に会得に近付いている証明であろう。
『妖夢選手、スペルカードを使用しての大技炸裂! 窮地を脱出しました!!』
『ちょうど時間切れになったみたいね。』
開始時と同じ音声が鳴り響き、椅子が二人を迎えるようにせり上がる。お互いに相当の体力を消耗したようで、特に言葉を交わすことも無くそれぞれに肩で息をしながら着席し、装置の動きに従って卓の前まで戻って来た。
「……うーん、まさか耐え切るなんて……」
もっとすんなり行くと思っていたのだろう。ミスティアは洗牌中に何度も首を捻っていた。そんなミスティアの姿を見て、妖夢は内心でほくそ笑む。
――あの時と同じだとは思わないで欲しいな。
彼女は妖夢の実力を見誤っているのだ。初対面のあの夜であったら、全てのスペルカードを使い果たした挙句に被弾していたかもしれない。しかしあれからも妖夢は修練を続け、着実に腕を上げていた。当時は切り札の一つであった現世斬を、最初の一手として見せてしまえるだけに成長している。
「まぁいっか。どうせ……」
配牌が終わると、ミスティアは前局に行ったのと同じようにぐるりと他家を見回し、妖力を開放した。
「この卓を支配してるのは、私なんだからね〜♪」
確かにミスティアの言う通りだ。この無きに等しい視界の中では、まともな麻雀を打たせてもらえない。妙に配牌やツモに恵まれる場であることは直感的に認識出来てきたのだが、ロン和了が期待出来ないのでは立ち回りにも迷いが生じる。加えて、もしもツモで和了ったとしてもミスティアに集中攻撃は出来ないので、状況を改善させるのは困難だろう。このままでは八方塞がり、打つ手無しである。
『おっと妖夢選手、理牌に時間をかけています。』
『悩んでいるのは麻雀のことではないでしょうけどね、きっと。』
『確かに……これだけの好配牌だと道筋は殆ど決まったようなものですし。』
東三局 東家 妖夢 配牌

既に筒子の一気通貫が確定。白を利用した混一色も現実的に見えている。いくら状況が悪いと言っても、ここで攻めない手は無いだろう。
『妖夢選手、打三索です。やはり混一色を目指すようです。』
『まぁ当然ね。問題は和了れるかどうかだけど。』
妖夢は改めて手牌の構成を確かめる。白と筒子
――このような形が自分の手元に来るとは、何とも面白い巡り合わせである。
――白玉……そうだ、白玉楼で幽々子さまがお待ちになっている……。
ここで諦めるわけにはいかない。何か手はあるはずだ。
「ねぇ妖夢。」
思考を巡らせようとしたその時、妖夢の耳に自分を呼ぶ声が飛び込んで来た。一瞬、思い詰めるあまり幽々子さまの声を空耳したのかと思ったが、よくよく考えると落ち着いた声というだけでだいぶ違う声質だ。
「これは人から聞いた話なのだけど……」
声は上家の方から聞こえるので、どうやら喋っているのは咲夜らしい。おぼろげな視界を頼りに卓を見てみると、ミスティアの第一捨牌が切られていない。どうやら長考に入っているようだ。
「何ですか?」
「剣術の達人は、心眼というものを会得しているんですって?」
「あ……っ!!」
その一言で、咲夜が何を言わんとしているのかは理解できた。と同時に、自分が重要なことを失念していたことに気付く。
――見えないと言うのならば……!!
どちらにしろ、仕掛けるには聴牌が最優先だ。この荒れ場ならば、恐らく聴牌まではすぐに持っていけるはず。
『あら……?』
『どうしました師匠?』
『魂魄妖夢の雰囲気が変わったわね。』
『え、そうですか?』
多くの観客が、鈴仙の疑問に首肯している。スクリーン越しには、そのような兆候は一見して感じられない。
『ちょっと映った顔がね、随分と自信に満ち溢れていたから。』
『よく見ておられますねぇ……。』
副露することが無いためか、卓の流れは非常にスムーズだ。永琳が話題に上げたからか、観客の興味は妖夢の手牌に集中していた。二巡目は五索をツモ切りし、三巡目は五萬をツモ切り。正常な状況であれば染め手の可能性が高いと自ら警告しているようなものだが、幸いにも最も技術の高い咲夜からはこの捨て牌が見えていない。そして各家動きの無いまま迎えた4巡目。
東三局 東家 妖夢 4巡目
『さぁ、妖夢選手が聴牌です。しかしこの待ち形はあまりに狭すぎるか?』
『いや……攻めるでしょうね。』
『こんな状態でですか……?』
『この形だからこそ、なのよ。』
永琳には妖夢の自信の正体がわかっているようだった。現在の状態、四筒と白のシャンポン待ちであることに、一体何の意味があるというのか。
「……リーチ。」
迷うことなく、四萬を切ってリーチを宣言する妖夢。観客席にはどよめきが起きたが、選手たちに大きな反応は無かった。雛は相変わらずのマイペースで、ミスティアは余裕の表情、咲夜はポーカーフェイスを崩さない。
『おおっと、これは……咲夜選手の手元に四筒と白が一枚ずつ含まれています。』
東三局 北家 咲夜 4巡目ツモ前
『これで妖夢選手は最後の白をツモって来るしか無くなりました!!』
『……どうかしらね。』
『えっ?』
鈴仙の疑問の声には答えを返すことなく、永琳はスクリーンに見入っている。これから起きることを見逃したくないとでも言わんばかりに。その雰囲気にただならぬものを感じた鈴仙も黙ってそれにならい、観客の視線もまたスクリーンに集中していた。雛が気楽に安全牌をツモ切りし、続くミスティアの手番。
「あーなーたーのー余ぉ命〜、か〜ぞえ〜ま〜しょう〜♪」
縁起でも無い歌詞を口ずさみながらツモ牌を手に取ったミスティアだったが、その内容を見た瞬間、明らかに表情を曇らせる。
『こ、これは……!!』
『やっぱり……ね。』
東三局 西家 ミスティア 4巡目
画面に映し出されているミスティアのツモ牌は白
――妖夢の和了牌だった。
『ですが、ミスティア選手の河は妖夢選手には見えないはずです。切ってしまえば良いのでは……』
『きっとミスティア・ローレライも同じことを考えるでしょうね。でも……』
動きを止めたのも一瞬のこと、ミスティアは脳天気な鼻歌混じりに、白を迷い無く河に放り出そうとしていた。見えない牌にロンを宣言するはずが無い。チョンボならば満貫払い。満貫相当の弾幕を受ければ、無傷ではいられないのだから。そんなことを考えながら、妖夢の表情を見ようと視線を向けたミスティアだったが
――
――え……何を!?
妖夢が、目を閉ざしていた。ただでも制限されている視覚を、完全に遮断しているのだ。
『おーーーっとぉ!! 妖夢選手、何故かその瞳を閉ざしています!!』
『心眼ってやつね……彼女は視覚に頼らず、他の感覚で対象の情報を取得しようとしている。』
『そ、そんなことが可能なのですか……?』
『見ていればわかるわ。』
妖夢は目を閉じて、神経を研ぎ澄ませていく。捨て牌の内容を掴むための、必要な情報を感じ取らねばならない。
麻雀慣れした者は、牌の表面に触れるだけでその内容を掴むことが出来るという。掘られている模様を触覚で判別する、盲牌と呼ばれる技術だ。
妖夢が為すべき離れ業、それは
――
――風を……空気の流れを感じろ……そこに実体が浮かび上がる……。
本来は、剣術において死角をカバーするために補助的に使う技術だ。複数の敵を相手にする場合、視覚では認識出来ない位置から攻撃を受けることがある。そういう場合に、物音や呼吸音、ひいてはその動きによって風を切る気配を察知し、回避や反撃を試みるのだ。
――前方……空気の流れが分かれている……これはミスティアの身体……
完全に黒く塗り潰された世界に、色を持たぬ輪郭だけの夜雀の姿が描かれていく。
――伸ばされた腕……牌を掴む手……感じる……奴の切ろうとしている牌……
妖夢はまだまだ未熟だ。だから牌に描かれている文様までを読み取るなどという神業はとても出来ない。しかし、今だけは、今回の場合においてだけは、神業の真似事ぐらいは出来る。
――牌の表面……空気の流れ……通過っ……つまり模様の無い牌、それは!!
輪郭だけの手から、牌とおぼしき物体が落下する。ミスティアが捨牌を行ったのだ。それはすなわち、「その牌」が河に出されたことを意味していた。
「その白……ロンだっ!!」
「うぇええっ!?」
ミスティアの驚愕の声と共に、閉ざされていた視界が一気に開けて行った。恐らくは「ありえない事象」が発生したショックで、誤って術を解除してしまったのだろう。ミスティアの河に置かれた牌は確かに白。妖夢の心眼に誤りは無かった。
東三局 東家 妖夢 和了
「立直・一発・一気通貫・混一色・白・ドラ3……三倍満!」
「うひゃあああ……」
さすがのお気楽なミスティアも、まさかの大損害に目を回していた。起きるはずのない放銃で、しかも親の三倍満。通常の得点を用いる麻雀であれば一撃で36000点、子の役満を上回る高得点を支払わされる。弾幕に置き換えるなら、好きな攻撃を好きなだけ展開出来るという解釈となるだろう。第一試合でもチルノが親の三倍満を和了っていたが、あれはツモ和了だったため、三者の避けねばならぬ弾数は三分の一に抑えられていた。しかし今回は直撃、集中力を持続させるのは至難の技と言える。
『いやはや、まさに奇跡の連続ですね……』
『違うわ、奇跡は魂魄妖夢の配牌がああいう構成だったことだけ。』
『え……』
永琳の思わぬ発言に、鈴仙は続く言葉を失った。偶然の連続にしか見えなかったこの展開をもってして、まるで殆どの事象が必然であったかのような物言いである。
『鍵山雛の能力がある以上、聴牌まで辿り着いたことは何ら不思議なことでは無いでしょう。そして魂魄妖夢はそれなりに腕の立つ剣士、心眼で白を見切ることぐらい、出来てもおかしくは無いわ。』
『し、しかし、ミスティア選手があそこで白を引かなかったら……』
『ふふ……それが、この結末の最も面白いところなのよ。』
『面白い……ところ?』
心底楽しそうに含み笑いを漏らす永琳。一体何を言っているのか、鈴仙を初めとした殆どの観客が疑問符を頭上に浮かべていた。
『さっきの東三局……魂魄妖夢のリーチ後、鍵山雛が捨牌した直後の十六夜咲夜の手牌をもう一度映して?』
『は、はい。』
鈴仙はアシスタントの兎に指示を出し、スクリーンの4分の1ほどに言われた通りの映像を表示させる。
『よーく見ててね。これから世紀の大マジックが始まるから。』
『マジック……ですか?』
『同じ5巡目の約1秒後、ミスティア・ローレライのツモ直後の映像に切り替えて。』
永琳の指示に従って、咲夜の手牌画像が切り替わる。もちろん切り替わったところで、ツモ前なのだからその内容が変わることは無い。
そう、無いはずだった。しかし
――
『え……えっ……ええええええええええっ!!?』
鈴仙は実況の立場を忘れて、本気の絶叫を発してしまった。観客席からも驚愕の声があちこちから上がっている。無理もないだろう。1秒前まで白だった牌が、いきなり南に化けたのだから。
『勝負所がわかってるのねぇ……こんな優秀なメイドを持って、紅魔館のお嬢さんはホント幸せ者だわ。』
そんな感嘆の声を上げたのは、しばらく黙って控えていた輝夜だった。
『時間干渉の跡、ばっちり残ってるわ……やってくれたわね。』
『ま、まさか、あの白ツモは……』
『そういうこと。』
時間を操る能力を持っているわけではないから、これは推測に過ぎないのだけど
――そう前置きをしてから、永琳は自分の見解を話し始める。
『十六夜咲夜は、魂魄妖夢が心眼で捨牌を見破りに来るとすぐに気付いたのでしょうね。そして脅威となるミスティア・ローレライを倒す確率を少しでも高めるため、一計を案ずることにした。』
雛の捨牌直後に時間を止めた咲夜は、3カウントの間に2つの行動を取ったのだ。1つは、妖夢の和了牌を確認すること。そしてもう1つが
――
『ミスティア選手のツモ牌をすり変える……!』
『そういうこと。幸いにも和了牌は自分の手元にある白だった。十六夜咲夜は急ぎ手牌の白と次のツモ牌を交換して、何事も無かったように時間の動きを元に戻したのでしょう。』
まさに時間を操る能力を持つ咲夜だからこそ出来る荒業だった。手牌等を握り込んで下家のツモ牌をすり変えるイカサマは存在するが、上家のツモ牌を、それもツモ直前にすり変えるなど、誰が見破ることが出来ようか。
『でも、ミスティア選手が白を切るという保障はどこにも無かったのでは……』
『そうね。でも白は既に合計で3枚、荒れ場だからミスティアの手も或る程度進んでいたはず、そう考えれば白が浮く可能性は極めて高いと考えるのが自然じゃない?』
『それって賭け、ですよね……?』
そんな鈴仙の疑問の言葉に永琳は深い溜息を漏らし、苦笑混じりに答えを返した。
『さっきも言ったでしょう? 従者にはそのぐらいの度胸が必要なの。』
思わぬところで本日二度目の藪蛇。頭を掻いて誤魔化すしかない鈴仙であった。
−6−
弾幕戦闘領域に上がって来たのは、先程と同じ二人。ただし、その攻守は逆転している。妖夢の視線がミスティアとは別の方向を向いているのは、鳥目の状態が解除されていないゆえだろう。客観的には圧倒的に有利なはずのミスティアだったが、その表情には翳りが見える。その理由は言うまでもなく、先程の放銃であった。
「……いや、今度は大丈夫なはず。」
自分に言い聞かせるように強い口調で呟くと、ミスティアは上空へ飛び上がろうと翼をはためかせる。が
――
――ひっ……!?
全身に大きな震えが走り、ミスティアはその動きを硬直させた。離れていても感じられる、妖夢から放たれる威圧感。それは自らの内から発せられる根拠の無い警鐘だったが、しかし動物的な本能が確かに告げていた。
空中は、危険だと。
見れば妖夢は瞳を閉じたまま、その右手を長刀の柄にかけていた。左手に既にスペルカードが握られているところから、開幕から仕掛けてくるつもりなのだろう。もう間もなく、戦闘開始の合図が発せられようとしている。
対する妖夢の視界は、完全に闇に閉ざされていた。しかし、その「感覚」は確かにミスティアの存在を捉えている。ここからは実戦の領域、牌の模様を読むなどという細かな名人芸は必要ない。
―― 一撃では、仕留められない。
ミスティアの手札はまだ1枚残っている。この1戦で雌雄を決するには、ミスティアを二度追い詰めねばならなかった。千載一遇のチャンスを掴んだこの局面、ここで逃せばミスティアを倒すことは困難となるだろう。
――決められるかどうかじゃない……決めなければならないんだ!!
目を閉じている以上、弾幕戦闘の開始も音だけが頼りだ。そして確実にミスティアを仕留めるためには、落ち着きを取り戻す前に決定打を浴びせる必要がある。夜雀の輪郭だけが映し出された黒一色の空間に、人工の音が響き渡る。
一つ。
二つ。
――仕掛ける……っ!!
三つ目の笙の音と共に、妖夢はスペルカードを高く掲げて宙へ投げ上げた。
「獄炎剣『業風閃影陣』!!」
妖夢の頭上へ飛び上がった半霊が、人側の身の丈を超える巨大な光球を放射状に連射する。その数は決して少なくないが、すり抜ける隙間が無いかと言えば決してそんなことは無い。
「こ、こんなのでやられたりするもんか……!!」
なおも空中戦への不安が晴れないのか、低空飛行で大玉をかわそうとしたミスティアだったが
――
「……たぁぁぁぁっ!!」
――妖夢が気合一閃、楼観剣を抜き打ちで大きく横に振り抜いた。その刀身が遠く離れたミスティアの身に届くことは無い。だが、そこから発せられる剣圧は違った。実体こそ伴わないものの、そのエネルギーは突風となって戦闘空間を駆け抜け、ミスティアの小さな体を大きく煽る。
「うわっ!?」
もちろん、鳥の妖怪変化であるミスティアにとって見れば、この程度の突風など恐るるに足らない。彼女に驚愕の声を上げさせたのは、その目前に広がる光景だった。
弧を描くような布陣で迫ってきていた全ての巨大な光球が、無数の細かい光弾に姿を変えていたのだ。
『こ、これは、一体何が起きたのでしょうか!?』
『あの一閃で光球を斬り裂いたんだわ……つまり、半霊からの放射は布石に過ぎない。』
目前に迫る弾幕は、とても水平飛行だけで避けきれる密度では無かった。やむを得ず高度を上げて大きく避けようとするミスティアだったが、妖夢は攻撃の手を緩めない。
「まだまだっ!!」
左手を高く振りかざすと、呼応するように半霊が巨大な光球を扇状に展開する。今度は速度が更に高く、分解を待たずしてミスティアの鼻先をかすめていった。続けて、低速の巨大球がミスティアよりも上方に展開され
――
「あ、やばい……っ!!」
気付いた時には既に手遅れ、楼観剣の一閃が頭上を薙ぎ払い、ミスティアは雨霰の如き光弾の巨群に挟み込まれていた。もはや、回避は不可能である。
「だ、だめだーーー! 鳥符『ヒューマンケージ』っ!!」
たまらずスペルカードの使用を宣言し、緊急回避を試みるミスティア。翼を広げた鳥の如き気弾がその身を中心に四方へ放たれ、その軌道からさらに四方へ小鳥を模した弾が放たれる。升目を描くようなその軌道は、確かに鳥篭のようでもあった。本来ならばその中心に敵を追い込むスペルなのだろうが、例によって周囲の弾幕を打ち消すだけでその役目は終わりとなってしまう。ミスティアは空いたスペースを高速で通り抜け、一際上空へその身を逃がした。
「でももう引っかからない……タネはわかったもん……!!」
勝気な笑みを浮かべながら妖夢を見下ろしたミスティアだったが
――
「ひっ……ぁぁ……」
――戦闘前とは比べ物にならない強い威圧感が、妖夢から放たれていた。殺気と表してもなお生ぬるい、絶望感すら伴うほどの圧倒的な闘気。
『妖夢選手、攻撃の手を止めましたが!?』
『恐らくはそうじゃない……ここからが本命なのよ。』
この状況に至るまで、全ては妖夢の狙い通りだった。素早い動きで弾幕をかいくぐるミスティアを、一撃の元に撃墜する「決めの一手」。魂魄に伝わる最大の奥義の一つだが、地上の相手には最大限の効果を発揮できないという弱点を有していた。ゆえに、ミスティアを空中へ「追い込む」必要があったのだ。
――この一太刀で……決める。
右手は長刀、左手は短刀の柄にかけ、妖夢は狙いを絞り込む。心眼が作り出す世界には、宙に晒された夜雀の姿。
――楼観剣、そして白楼剣……。
自分のような未熟な者が扱えども、斬れぬものは殆ど存在しない至高の二振り。その力を完全に引き出すことが出来れば、この身の使命は
――主の望みは、必ず達せられる。
――思い描け……最高の一閃を。
神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。物理的な要因は何も加わっていなくとも、刃の切れ味が増していくのを感じる。
そして予感は確信に変わる。今ならば修行の成果を完全に発揮出来るはずだ。
そう、今ならば、断言出来る
――
――斬れぬものは、無い!!
「人智剣……『
天女返し』っ!!』
輪郭だけだったミスティアの姿が一気に色を帯び、その姿を完全に形作る。ついに捉えた狙うべき一点へ、妖夢は渾身の一閃を叩き込んだ。
「うわあああっ!?」
間一髪だった。実体を伴わない剣圧ではなく、剣閃そのものがミスティアのいる「その位置」に発生したのだ。本能的に身を翻していなければ、斬り捨てられてアウトだった。
「……ふ、ふふっ、今度こそ……」
しかし、渾身の一撃も際どいところで避けられてしまえばそれまで。不意打ち的な攻撃は初撃で決めることが重要なのだ。
では、その「一手」を外した妖夢はどうしたのか。
今度こそ打つ手を失っただろうと安堵したミスティアが目を向けると、妖夢はそれぞれの刀を鞘に収めようとしているところだった。諦めて攻撃を止めるというのだろうか。まるで何かの余韻に浸るかのように、ほんの少しだけ収め切らずに一旦手を止める妖夢。続く動きをミスティアのみならず、全ての観衆が見守っている。軽く息を吐き、妖夢の柄を握る手に再び力が込められる。
金属音と共に、その刀が完全に納められたその瞬間。
「……えっ」
ミスティアが直前まで居たその「空間」が、凄まじい轟音と共に「砕け散った」。空間の破片とも言うべき「存在の塊」が、勢い良く周囲へ弾け飛ぶ。悲鳴を上げる猶予すら与えられなかったミスティアが、目前で発生した高密度の弾幕に飲み込まれたのは一瞬の後
――
ピチューン
どの弾に当たったかの判別は困難だったが、煤だらけで墜落してきたことから被弾は確実だった。その密度と速度は、とても初見で避けきれるものでは無かったのだ。ましてこれほどの近距離から発生しているのでは、軌道を見切る暇など与えられない。スペルカードが残っていれば緊急回避も可能だっただろうが、だからこそ妖夢はミスティアの切り札が尽きてからこの技を放ったのだろう。
「現と幻の狭間にたゆたう天女の羽衣を射落とさんとす。是は如何にせん……」
既に鳥目の状態は解除されているのだろう。妖夢はその目を開き、天を仰いで何かを呟いている。
「其を為さんとする者、天女在りたる色空を諸共に斬るべし。これぞ奥義
――天女返し。」
どうやら魂魄の家に伝わる教えのようだ。たった今、繰り出した技の極意らしい。
『ツバメ返しって言うから鳥の燕かと思ったら……天女のことだったんですね。」
『そう読めないこともないからね。しかしまぁ、これまた滅茶苦茶な大技ねぇ……』
妖夢が口にした極意から解釈するならば、あの技の「攻撃対象」はミスティアでは無かったのだ。妖夢はその奥義をもって、ミスティアが直前までいた「空間そのもの」を斬った。そして斬られた空間が結合を失って爆散し、実体を伴う要素が気弾と化して放出された。もしも斬られた場所から十分な距離を取っていれば、放射の隙間を見切ることも出来たのだろう。しかしミスティアは攻撃が終わったと思って油断し、その場を離れようとしなかった。それが命取りとなったのである。
「あいたたた……わ〜てほーんまによぉせ〜んわ〜……っと♪」
派手に墜落して来たミスティアだったが、起き上がる際には相も変わらず呑気に鼻歌混じりである。
「ありゃ避けられないな〜、参った参った。」
ミスティアはケラケラと笑いながら、差し出された妖夢の手をとって立ち上がる。
「私こそ危なかったわ。でもこちらも良い修行になったし……もっと精神修養が必要だと痛感した。」
「そっかー、頑張りや〜♪ 滋養強壮にはウナギが一番だから、お稽古の合間に是非よろしくね〜♪」
勝負が終わってすっかり女将モードに戻ったのだろう、歌うように屋台の宣伝をしながら、戦闘領域から出て行くミスティア。お気楽な本質は変わらないながらも、その去っていく後ろ姿には以前には見られなかったような貫禄すら感じられた。
――夜雀だって日々変わっているんだ……私も負けてはいられない!
『いやぁ、互いの健闘を讃え合う、さわやかな1シーンでしたね〜。』
『まぁ確かにそうなんだけど……彼女、何か「やり遂げたぞ」って顔してるわねぇ。』
『へ? でもだって、本当にやり遂げたじゃないですか。』
永琳の重い溜息が、マイクを通して客席中に伝わる。その心境を理解したのであろう主に中年層の観客たちが、くすくすと笑い声を漏らしていた。
『……ウドンゲ、あなた彼女と結構ウマが合うんじゃない?』
『ん〜、そうですね〜、そんなに親しげでもないですけど、苦労話とか盛り上がりますねぇ。』
『そうでしょうね……』
振り返って戦闘領域。勝利の余韻に浸る妖夢の肩を、何者かが軽く叩く。
「え……あ、咲夜さん。」
そこにいたのは咲夜だった。妖夢の手を取って、優しい微笑みを浮かべている。
「見事だったわ、妖夢。本当に腕を上げたのね、あなた。」
「あ、いやぁ……」
高貴な御方に仕える従者という点で先輩にあたる咲夜にこのようにストレートに褒められて、悪い気がするはずもない。顔が少し紅潮しているのを自覚しながらも、笑顔を返すことで賛辞に答える。
「ミスティアを倒せるのはあなただけだった。本当によくやってくれたわ。」
「そんな、持ち上げないでくださいよ……」
後先考えずに全力を出し尽くした甲斐があったというものだ。まさに死力を賭した成果
――
「ところで妖夢。あなた、一つ忘れてることがあると思うの。」
「へ? 何ですか?」
咲夜の微笑みは、ますます深い慈愛を帯びていた。それは性質としては、そう、深い知見を持たぬ浅はかな衆愚の行動を、手の届かぬ高みから見守る賢君のような
――
「この試合はね、敗者がもう1人出なきゃ終わらないの。」
集中力を使い果たして精神的にも疲弊してしまった妖夢が、次局で咲夜の高目に振り込んだことは言うまでもない。
弾幕戦闘領域に上がってきた二人の状態は、悲愴なまでに対照的だった。片や、軽くステップを踏みながらナイフ投げの素振りをするメイド。片や、刀の柄に手をかける動きも重たい疲労困憊の庭師。もはや実際に戦闘をせずとも、勝負は付いているようなものである。
「本当にやるの?」
「まだ諦めきってませんから……まぁ、実際んところ殆ど諦めてますけど……」
一流の剣士は自らの力量と状態を見誤ったりはしない。この状況を鑑みるに、どう考えても勝ち目は限りなく薄い。低級の妖怪などとぶつかるならまだしも、「完璧」とすら形容される紅魔館のエージェントが相手では、コンディションの悪さはダイレクトにペナルティとなる。
「それでも、降参だけは絶対嫌です。幽々子さまに合わせる顔がますます無くなりますし。」
「立派だわ。」
淡白な返答ではあるが、咲夜自身に皮肉のつもりは無い。こういう馬鹿正直なところは妖夢の弱点に直結しているが、同時に強さにも繋がっている。
「なら……全力でカタを付けさせてもらわないとね。」
戦闘開始の音声と共に、咲夜はスペルカードを手に取った。実際のところ、生半可な弾幕では妖夢の見切り能力を打ち破ることは出来ないだろう。どちらにしろ、スペルカードを使う必要はあるのだ。
「まずは小手調べよ……奇術『幻惑ミスディレクション』。」
宣言と同時に、咲夜は日本古来の武器「苦無」に酷似した形状の小道具を大量に投擲する。非常に広範囲にわたってばら撒かれているが、軌道自体は直線的だ。弾列の間に入り込むという基本的な避け方で問題は無い
――
「……違うっ!?」
空を切る気配を感じた妖夢は、体を捻って側方へ注意を向ける。あらぬ方向へ消えて行ったはずの苦無が、目前まで迫ってきていた。
「反射か……っ!!」
そう、咲夜は苦無を戦闘領域の両端に反射させることで、弾幕の軌道展開を難解なものに変化させていたのだ。咲夜自身から直線で放たれるならば然程困難でも無いが、反射によって道筋が複雑に変化し、安全な「ライン」の見切りが困難となる。
「だがこれなら寸前まで引き付ければ!!」
それでも所詮は直線軌道。遠方の余計な獲物に気を取られなければ、大きく混乱させられることもない。咲夜は時間停止を利用した激しい位置移動を繰り返しながら次々と苦無を放ってくるが、妖夢の認識は完全に弾幕の構造を見切りきっていた。
「さすがに、簡単にはやられてくれないわね。」
「当たり前です……!」
「でも、今のであなたは更に消耗した。」
そう言って咲夜が手にしたのは、スペルカードでは無く複数本のスローイングナイフだった。彼女の仕える洋館の名を髣髴とさせるような、紅に彩られた柄を持つ10本のナイフ。
「私の主の名前、ご存知よね?」
「……レミリア嬢ですか。」
何がしたいのか理解できない。しかし答えを返さぬ理由も無いので、問われるままに返答をする妖夢。
「そう。フルネームは……」
それらを一挙に投擲せんと腕を交差させるように構える咲夜。それぞれの手に5本ずつ、ナイフが扇の骨の如く広がる。
「レ・ミ・リ・ア
――」
「な……っ!?」
こんな状況でなければ、幻想的な光景だと表現することも可能だったかもしれない。咲夜が一文字ずつ声に出すたびに、ナイフが1本ずつ炎に包まれていく。
「ス・カ・ー・レ・ッ・ト。」
これで合計10本。咲夜の手の内に炎の刃が収められていた。
「さぁ、そろそろ終わりにしましょうか」
翼を広げるように両腕が開かれると、咲夜を中心とした放射状に炎の束が放たれる。時間を止めて、全周囲に射出するよう調整したのだろう。
「大仰な手品でしたけど、中身は随分と単純ですね……!!」
軌道を早々に読み取り、その隙間に入り込もうとした妖夢の目に映ったのは
――
――スペル……!?
エプロンのポケットから、最後のスペルカードを取り出す咲夜の姿だった。
「幻世……『ザ・ワールド』!!」
宣言と共に時がその活動を止め、咲夜だけが動くことの出来る世界が現れる。放射状に放たれた炎の刃、弾道を見切って回避行動に移ろうとしている妖夢、戦いの流れを見守る観客たち、全てが絵に描かれた虚像のように静止している。咲夜はゆっくりと移動を繰り返し、あらゆる角度からナイフを3本ずつ、妖夢に向けて放っていく。咲夜の手を離れたナイフはいずれもその場で動きを止め、時が元の働きを取り戻すのをじっと待っていた。
「時を斬れるようになるには……」
最後の仕上げに、咲夜はいくつかの炎の刃を軽く摘んでは角度を変えて行く。一切の声が聞こえることの無い相手に、独白のように言葉を紡ぎながら。
「……二百年かかるって言ってたわよね?」
炎に触れていくのに合わせて、一歩ずつ妖夢に近付いて行く咲夜。ついには、通常の戦闘中ならばとても入れない至近距離まで足を踏み入れる。二人の間合いは、文字通り鼻の先。
「楽しみにしてるわ、二百年後。」
妖夢の前髪を掬い上げて、その額に唇の悪戯。
ついつい気にかけてしまう後輩従者へ
――ちょっとした遊び心だった。
元の位置へ戻った咲夜は懐中時計に目を落とすと、神経を集中させて「約束の言葉」を口にする。
「『そして時は動き出す』。」
時間停止領域を認識していた咲夜にとってみれば、新たに配置したナイフが動き出し、角度を変えた炎の刃が相応の軌道変更をしたに過ぎない。しかし、その中間過程を全く認識出来ていない妖夢や観衆にしてみれば、それは手品などという言葉では片付けられない異常現象だった。
「こ……こんなのって……」
妖夢は戦闘中だというのも忘れて、目前の光景に魅入られていた。咲夜とは幾度となく戦闘はしていたが、これほどの大技を使われたことは一度として無かった。
それは完璧なまでの「殺すための弾幕」。
もちろん命名決闘で本当に落命することはまず無いが、これが実戦なら相手はほぼ確実に死ぬ。非情なまでに計算し尽くされた、それでいてこの上無く洗練された
――さながら芸術作品。
――これが……これが、完全で瀟洒な従者……っ!!
少しでも長くこの「完璧」を目に焼き付け、何か一つでもこの身の糧として、彼女にわずかでも近付くために
――妖夢は身動き一つ取ろうとはしなかった。
ピチューン
命中したのは炎の刃。しかしこれを避けたとて、その移動先を縫うように新たに配置されたナイフが飛んできていた。集中力を消耗した状況では、どちらにしろ避け切れなかっただろう。電池が切れたようにゆっくりと、仰向けに倒れ込む妖夢。いつの間にか復旧した人工の照明が、妙にまぶしかった。
『妖夢選手、一歩も動けず!! これで第二試合の勝者は咲夜選手と雛選手に決定しましたぁっ!!』
鈴仙の試合終了宣言に、観客席から大きな歓声が上がった。大立ち回りが多かった試合だけに、観客も相当ヒートアップしていたのだろう。選手たちの名を呼ぶ声援も多く聞こえてくる。
『結局は順当なところに落ち着いたけど……思った以上に白熱したわね。』
『そうね〜。大会が盛り上がるのは大いに結構だわ。』
永琳、そして輝夜にとって、イベントの成功は至上命題である。元々は輝夜の思い付きとは言え、それなりに入念な準備を行ってきたのだから。
喧騒がおぼろげに聞こえる弾幕戦闘領域で、妖夢はようやく腰を起こした。もう少し余韻に浸っていたかったが、次の試合の妨げになっては申し訳ないだろう。
「起きられる?」
「大丈夫です。」
手を差し出そうとしてくれた咲夜に笑顔で返し、すぐ脇にあった卓へ通じる隙間に身を翻す妖夢。続けて咲夜も軽やかに卓の前へ戻ってくる。
「本気でやられると、全然叶いませんね。」
「あら、私はまだ本気じゃないわよ?」
もちろん、言われなくてもわかっていた。消耗した妖夢相手に全力を出して、無駄な体力を使うような人ではない。
「でもまぁ、さっきも言ったけど……確かに腕はすごく上がってると思うわ。」
「はい、ありがとうございます。」
健闘への労いを含めた誇張もあるのだろうが、それでも実力が高い人に認められるというのは嬉しいことだった。卓から更に外へ出ると、観客の歓声が未だに収まりきっていなかった。自分に向けられた声援も少なからずあるようだ。
「ねぇ妖夢。」
「はい?」
この呼ばれ方をするたびに、一瞬だが幽々子さまを思い出してどきりとさせられる。幽々子さまの従者である我が身を省みるに、あまり良い傾向では無い気もする。妖夢の数歩先で振り返って呼びかけてきた咲夜は、そんなこちらの内心は露知らず、変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。
が
――次の瞬間、その細められていた瞳が薄く開かれ、妖しい色を浮かべる。
「二百年後、ね?」
自分の唇を指差し、続けて妖夢の額を指差す咲夜。その言葉と行動の意味するところがわからない妖夢は、目をぱちくりとさせるしかなかったが
――
――あれ……っ!?
一瞬、ありえない映像がフラッシュバックし、妖夢の顔が一気に赤くなる。そんな出来事は存在していないはずなのに、何故そんな光景を「思い出す」ことが出来るのか。
頭から湯気を発しながら混乱して取り乱す妖夢を見て、咲夜はつい含み笑いを漏らしてしまった。
咲夜だけが知っている、妖夢が「あのこと」を記憶している理由。それは
――
――ほんの一瞬だけ、時を動かしたからね。
《以下次節》